今一、「人生の幸せ」「大島丈の生き方」という意味が分からないという方もいらっしゃるかもしれません。

そこで私が体験したエピソードをひとつ紹介させていただこうと思います。

少し、大島丈が見えてくるかもしれません。

数年前にも載せたかもしれませんが、私のある日の日記からの抜粋です。

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【おでん】

駅前に小さな公園がある。
その公園の一角に、この季節になると屋台のおでん屋が店を出す。
私は家路の途中、公園のベンチに腰をかけ熱い缶コーヒーで体を温めるのが慣わしである。

ふと見ると、
車椅子のおじいさんが、おでんを注文しようとしている。
手と顔が常にプルプルと震えている。
どうやら障害があるようだ。
おでんを注文しようにも、言葉が不自由で「あう、あう」としか声が出ない。

おでん屋はしびれを切らし苛立ちながら、
おじいさんの注文を半ば無視し、山勘で適当な物を皿に載せ、
おじいさんの財布をもぎ取り、お金を乱暴に抜き取っていた・・・・
それでもおじいさんは、幸せそうに、不自由な手でじゃがいもを頬張っていた・・・・

これだけ虐げられているのに、
これほど悲しい身の上なのに、なんという幸福に満ちた表情をするのだろう!

私は涙が止まらなくなった。
そして、ふと不思議な感覚に包まれた。
私は常日頃、この涙に似た感覚を味わっている・・・・
そうか!
丈作品には、この涙と同質の感動があるのだと気づく。

それはヴィクトール・フランクルの思想
「どんな時も人生には意味がある」の体現による感動なのかもしれない。

生きることは滑稽であり、残酷である。
それでもなお人生は尊く美しい。

丈がいる限り、人間は捨てたものじゃないと思えてくる。
丈がいる限り、もう一度人間を信じてみようと思えてくる。
丈がいる限り、灯を見失わない。
丈がいる限り、決して独りではない。

丈は人類のライフなのだ!