この点に関しては『淫 乱─鎌倉未亡人』のあとがきで舘淳一氏が次のように書いておられます。

氏の筆致はよく抑制されてい、言葉は吟味しつくされ、しかも叙述は意外なほど完結だ。やたら仰々しい、手垢のついた形容詞や決まり文句をだらだらと羅列させて、
行数ばかり稼いでチッとも興奮させられない作家──かくいう私も、そのなかのひとりなのだが──の作品とは大ちがいである。
(略)文体は力強く、描写されていなくても行間から余白から、読者の脳に直接、凄艶な官能と残酷の美のイメージが叩きこまれてくる。
その、なみなみならぬ表現力には、いつも脱帽させられるのだ。

また、舘氏は扇作品の魅力について、次のようにも述べておられます。

端的に言えば、彼の作品はどれも、凡百のSM小説を霞ませるような特異な輝やきと香気を放っているからだろう。
その第一の特徴は、周知のことだが、強烈な臀部嗜虐──尻責め、肛門責め──に対する驚くべき耽溺の度合いだ。(略)扇氏は飽くことなく女の臀を責めつくす。

天城鷹雄氏の長編作品では、どれも母子が相姦することに主眼が置かれていて、
舘淳一氏が指摘している扇作品の特徴である「強烈な臀部嗜虐──尻責め、肛門責め──に対する驚くべき耽溺の度合い」が非常に低いように思います。

ちなみに、『淫 乱─鎌倉未亡人』は扇氏にとってはある意味実験的な作品であったようで、「手の内の芸ではない」と思われていたようです。
要は、SM色の薄い、強烈な臀責めや肛門責めなどのない作品を書くのは苦手だという事でしょう。
(正直に言えば、それこそ作品によっては強烈な臀責め、肛門責めが続き、背筋が凍ってうすら寒くなるほど不気味さを感じるものもあります。)

もちろん、私は天城鷹雄氏の長編は扇紳之介氏が直接書いたものではないのでは?と疑ってはいても、
母子相姦小説好きの私にとって、天城氏の全ての長編も大好きな作品であることに変わりはありません。

またまた長々と失礼しました。