自分は表現の自由戦士のコンテンツ担当に専念しますってことだろう
’報道の自由とコンテンツの自由
「表現の自由が話題にあがる際、『報道の自由』と『コンテンツの自由』は混同されがちですが、このふたつは分けて考えなければいけません。
どちらも大切なのですが、私が声を上げて守りましょうといっているのはコンテンツの自由の方ですね」
――具体的にはどのように違うものなのですか?
「報道の自由はノンフィクションを扱うので、事実を伝える努力をする必要があります。
自由に報道できるのは、それが事実であると裏付けが取れる、確証が取れる場合だけです。フェイクニュースは駄目なんです」
――ではコンテンツの自由は。
「コンテンツの自由はフィクションの話です。フィクションである限り誰も傷つけません。
誰かを傷つけるのはそれがフィクションではなくなってしまった時です。
誰か特定の人を表し、それによって傷ついたり、暴力を振るわれたりということがあれば、
それはもうフィクションではないので規制や罰則がなければいけません。
ですがそうでない限り、架空の世界の中で誰が何をどうしようと別に良い。
……という話をすると、『強姦シーンを描けば強姦する人が増えるんじゃないか』という意見が出ることも多いですが、
でも強姦する人はそういう表現を見なくても強姦したかっただろうし、そういう表現があることで発散される部分もあるかもしれない。
逆にそういった表現が全くなくなれば事件を防げるかというと、それも分からない。仮にその表現が誰かを傷つけていることになったらそれはもうフィクションではありません。
が、フィクションだとみんなわかっていて、誰も傷つけない限りは自由であるべきです」’