https://megalodon.jp/2016-1224-1516-19/https://www.douban.com:443/note/400814504/
この作家の論理レベルから推せば、こうした「思わせぶり」な表現は、内容を欠いたその「思わせぶり」による「朦朧」性にこそ、価値があるのではないか。
つまり、「無意味(無内容)」だからこそ、非論理的な読者からは「過大評価」という「誤解(妄想)」呼び込むこともできる、ということなのではないか。
京極夏彦風に言えば「その箱は、からっぽだった。そこに魍魎が湧いた。魍魎とは、空虚のことだった。――なんだか、ひどく疲れた」とでもなろうか。