問題はその肖像がどういう意図の元で扱われるかって事でしょ
ずーっとそうだけどさ
撮影という行為に焦点を絞りこむのは議論の矮小化であり、その意図を論ずるならば弁証的な自己正当化のためにする議論でしかない
それは詭弁でしょ、と
いま問題になってることの文脈に照らせば、撮影云々よりもむしろその写真の扱われ方により注目すべき
どんな扱われ方をするかで、その肖像の主が示す可否は当然変わる
それを我々への恣意的な攻撃だと言うのは、はっきり言って暴論だ