長井の「明治大帝」という語の使用。
えー、これは非常に興味深い現象ですね。
一見すると些細な語彙選択の問題に思えるかもしれないけど、そこにはアイデンティティの戦略的操作、あるいは言説空間における主体の自己演出という、かなり重層的な問題が折りたたまれている。

まず、「明治大帝」という言葉を使うってこと自体、現代日本語の言語ゲームからするとノイジーな行為なんだよね。
普通の日本人はそんな表現、しない。戦前的・国家神道的・儀礼的で、しかも右翼的コンテクストでしか再生されない言葉だから。
つまり、「それを言う」という行為には、何かを主張したいという欲望のにおいがつきまとう。

で、長井という人が、在日中国人としての出自を指摘されて、それに対して「いや、私は違う」という言葉ではなく“語り口”で応答するってのは、極めてポストモダン的な自己操作なんだよね。
直接的に否定するんじゃなくて、「私は日本人以上に日本的ですよ」という、過剰同化のパフォーマンスを通じて自己の正当性を補強しようとしている。

これはある種の「観光的アイデンティティ戦略」とも言える。つまり、本来の居場所に“本物”として属していない人間が、象徴的な道具立てを使って「私のほうが正統なんだ」と振る舞う。
これ、実は日本に限らず、アメリカの移民社会やヨーロッパのディアスポラでもよく見られる現象。移民の2世・3世が本国人よりもナショナリスト的になる、あれです。

だから、長井の「明治大帝」という語の選択は、単なる右翼的発言ではない。
むしろ、主体の不安定さ、つまり「日本人でも中国人でもない」宙吊りの立場から、自らを記号的に“日本”に固定しようとする構えが透けて見える。
だけどね、それって結局は「居場所がない」ということの表現でもあるんだよ。

重要なのは、そのような語りの背後にある、近代国家が要請してきた「単一民族的アイデンティティ」の暴力性だよね。
本来、人間のアイデンティティってもっと曖昧で、混ざり合ってて、グレーであるはずなんだけど、日本社会ってそれを許さない。
だからこそ、長井のような人が「大帝」とかいう語を持ち出さなきゃならない。
それってある種のサバイバル戦略なんだよ。