>>kanon 379
まず以下の、「ならばお前がやってみろ」という典型的な長井構文を含むやり取りを読んでみてください。
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▼長井 “じゃ、お前が正しい日本語を使い、これが本来の正しい書き込みだという例を見せてくれw
私を平伏させるような例文を書いてくれ”
▼反論者 “テメエがひれ伏すかどうかはあくまでテメエの言い値なわけでいくらでも逃げられるわな
あと「平伏する」も漢字だから意味は通じるが日本人から見ると不自然だぜ”
▼長井 “「平伏」に食ってかかること自体、日本人どころか、お前自身帰化を目指して日本語を学ぶ半島出身の日系韓国人じゃないのかな?
ハングル文化から漢字圏に来ると、ハングルの簡便さが良く思えて仕方ないから食ってかかるんだ。
簡便な「ひれ伏す」がいいんだと叫ぶ。つまり嫉妬w”
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さて、「ひれ伏す」と「平伏する」、どちらが自然な日本語か?
結論から言えば、「ひれ伏す」の方が圧倒的に自然です。なぜか。
「ひれ伏す」は和語、つまり日本人が昔から使ってきた日本語らしい表現なんですね。
一方の「平伏する」は漢語。書き言葉や儀礼的な文脈では使われるけど、日常会話やネットの書き込みの文体には不自然なんです。
で、そういう指摘に対して「簡単な言葉を好むのは韓国人の嫉妬だ」って長井は返していますが、それ、まったくの論点のすり替えです。
問題は「簡単かどうか」じゃない。
語種(和語・漢語)の使い分けと、文脈との適合性の話なんですよ。
余談ですが、長井が「日系韓国人」の意味を勘違いしている点についてはご愛嬌(笑)
それにね、この話にはもう1つ興味深い論点があります。それがこちら。
「縋る → ひれ伏す」への論理の飛躍
長井は「お前は俺に縋ってる。つまり、俺にひれ伏している」って言っています。
一見、筋が通ってるようでしょ?
あぼーんレスが増えることを見て「縋る」と言うのもいかがなものかとは思いますけど、そこには目をつぶったとしても、これ実は論理的に破綻しているんです。
何かというと、『後件肯定の誤謬』(Post Hoc Ergo Propter Hoc)。
難しい言い方ですけど、簡単に言えばこうです。
「Aが起きた。Bが起きた。だからAはBの原因だ」って決めつける、根拠の薄い思い込み。
たとえば、「誰かが何かを相談してきた → だから俺にひれ伏している!」
いやいやいや、それは短絡的すぎるでしょって話です。
「縋る」という行動と、「ひれ伏す」という心理状態の間には、論理的飛躍がある。
これを正しく区別して考えられるかどうかで、論理力が試されるんです。
さらに言えば、「平伏する」みたいな不自然な表現を得意げに使ってしまう人ってのは、しばしば「自分は高度な語彙を使っている=優れている」って思い込んでいる傾向があります。
でもそれ、言語学的にも誤りですからね?
実際、中国語や韓国語を母語とする初中級の日本語学習者が、漢語表現に偏りやすいという現象は、学術的にもよく知られています。
最後に、こう締めましょう。
言葉のレベルとは、難しさじゃない。文脈との調和で決まる。
論理の強さとは、攻撃性じゃない。飛躍を避け、つなげ方を考えること。