助っ人外人を淡々と書き込むスレ
ご冗談をW
ttp://pc11.2ch.net/test/read.cgi/net/1196676138/660
婆は悪としても必要とされてませんW
妄想ブログをヲチャに笑われるだけの存在ですW 国が違えば、言葉、文化、生活習慣、価値観等が違うのは当たり前のことです。
そして、その人たちは自分たちの言葉や文化を誇りに思い、大切にしています。
心をひらき、コミュニケーションをとりながら、相手の文化や習慣などを受け止め、
互いに違いを認め合うことが必要です。 クリス・ナイマン
かつて南海ホークスに在籍。
同期入団の小柄なドイルとは20cm近い身長差があり、話題になった。
ホームランを量産する典型的な助っ人タイプの選手。
バッティングで貢献する以上に、まずい一塁守備で足を引っ張った。 アロンゾ・パウエル
中日、阪神でプレーした外野手。
狭いナゴヤ球場でヒットを量産し、首位打者を何度も獲得。
細かい怪我が多く、毎年のように一定期間戦列を離れていた。
晩年はひざの故障に苦しんだ。 トロイ・ニール
仰木監督時代のオリックスに在籍。
当時のオリックスは日替わりオーダーにより、「猫の目打線」と呼ばれていた。
しかし、ニール自身は守備があまりにも下手だったため、出場は常にDH固定。
それを補って余りあるチャンスに強いバッティングで、4番での出場が主だった。
外国人選手としては割と長い間日本でプレーしていたが、一旦オリックスを解雇になっている。
しかし、次の年にニールの抜けた穴が埋まらなかったため、シーズン途中に呼び戻された。 タイゲイニー
土井監督時代のオリックスに在籍。
クリーンアップを期待されたものの、不振。1番に打順が変わってから本領を発揮した。
2年目のシーズンは再びクリーンアップを期待されたものの不振により退団 タイラー・バークレオ
既に外国人枠が埋まっていた西武に、今でいう育成選手契約で入団。
獲得の最大の決め手となったのは「レオ」がつく名前。
ホームランを量産して活躍できたのは1年だけ。
その後は郭、デストラーデに一軍出場を阻まれた。
後に広島に移籍したものの、目立った活躍はできず、退団。 ジェームズ・パチョレック
大洋、阪神でプレーした中距離打者タイプの助っ人。
大洋ではポンセとのコンビで首位打者を獲るなどの活躍。
しかし、当時の大洋は慢性的な長距離打者不足いうチーム事情もあり、
毎年打率3割を打っていたものの、解雇になってしまう。
阪神ではオマリーとのコンビで活躍。最後の年は腰痛が原因で退団。
リチャード・ランス
広島に在籍した、「ホームランか三振か」という典型的なバッター。
打率は2割を超えるのがやっと、三振はリーグ最多を記録しながら、
ホームラン王のタイトルを獲っている。
マイク・グリーンウェル
メジャーでは「ミスターレッドソックス」と呼ばれた超大物選手。
日本ではケガが原因で開幕に間に合わなかったばかりか、
自打球による骨折で5月中に戦線離脱。
数日しかプレーしないまま「神のお告げ」により退団。 DJ
仰木監督時代のオリックスでプレー。
外国人選手らしくない風貌と登録名のせいで、
初対面のイチローが球団スタッフと勘違いしたというエピソードがある。
通算成績は大したものではないが、夏場に限ってホームランを量産したり、
チャンスでの強さを見せたり、短期間にインパクトの残る活躍をする選手だった。 ブーマー・ウェルズ
主に阪急で活躍した選手。外国人選手としては初の三冠王になるなど、
数多くのタイトルを獲得した、日本球界屈指の助っ人。身長200cm体重100kg
死球に怒ってよく乱闘を引き起こしたことが珍プレーに挙げられた他、CM出演にも繋がった。
オリックス身売り後は年齢のせいもあって成績が下がり、退団。
平和台球場時代のダイエーで1年プレーして引退したが、その年にも打点王を獲った。 CD
最初の年は近鉄でプレー。イニシャルによる登録名は、当時オリックスのDJに対抗したもの。
二塁を期待されたものの、肩が弱かったため、出場は一塁かDH。
左ピッチャーを打てなかったため、相手の先発投手が左のときはベンチスタートがほとんどだった。
近鉄解雇後はオリックスでプレー。DJがいたため、登録名は本名のドネルス。
古巣近鉄戦でこれ見よがしに活躍した。 スコット・シェルドン
暗黒時代のオリックスでプレー。
来日当初は全く活躍できなかったが、夏場に本領を発揮するという、
外国人選手にありがちなパターンでホームランを量産。
チャンスに弱く、ホームラン数に対して打点、得点圏打率が恐ろしいまでに低かった。 シェーン・マック
アメリカでは走攻守三拍子揃った超大物で、日米野球の際にも来日したことがある。
巨人在籍時は肩を壊していたため(もともと弱かった?)、選手としてのピークは既に過ぎていた。
そのため、試合終盤は屋鋪と交代することが多かったものの、攻守両面で活躍した。 マーティ・レオ・ブラウン
第一期山本監督時代の広島でプレー。成績に目立つものはないが、
キャッチャーへのタックル、クロスプレー、ダイビングキャッチなど、
ユニフォームを土まみれにする全力プレーが持ち味だった。
退団後、アメリカマイナーリーグの監督を経て、現在広島の監督を務める。
アニマル・レスリー
阪急時代にストッパーとして活躍したが、その成績以上に、
アウトをとって雄叫びをあげる、味方選手を小突いて喜びを露にする、
などの派手なパフォーマンスで人気を集めた。
ウェス・チェンバレン
広岡がGMを務めていた頃のロッテにシーズン途中入団。
この年のロッテにはスパイク、ジャックという新助っ人コンビがいた。
二人とも広岡がビデオだけで獲得を決めたという胡散臭い選手。
胡散臭さは的中し、二人ともまったく活躍できなかった。
ウイットモアという選手とともに途中入団。
ホームランだけでなく、そこそこ足も速い選手だった。 フランク・ボーリック
山本監督時代のロッテでプレー。
来日当初は成績が振るわず、1年目は二軍スタートだった。
しかし、一軍昇格後はたびたび殊勲打を記録したほか、
ボーリックがホームランを打った試合では負けないという
「不敗神話」もあり、たちまち人気者となった。 デリック・メイ
山本功児が監督の時代にボーリックとロッテの主軸を任された。
「俺たちのデリックメイ〜」の応援歌は他球団ファンからも人気が高く、
メイ退団後はマット・フランコに引き継がれ、現在は
将来の強打者候補・神戸の応援歌になっている。
原曲はこちら↓
http://jp.youtube.com/watch?v=rp02GBczwI4
ダリル・メイ
阪神、巨人で先発を務めた左腕
阪神→巨人と渡り歩いたのはメイ、カツノリ、江川卓くらい? チョ・ソンミン
韓国出身の右腕。7、8年くらいの長期の複数年契約で巨人に入団。
これだけ長期なのは、日本国内を見渡しても横浜三浦、ソフトバンク松中くらいしか例がない。
ストッパー、先発の両方で活躍したものの、長くは続かなかった。 メルビン・バンチ
2度目に星野が監督を務めた頃の中日に在籍。
先発ローテーションを守り、ノーヒットノーランも達成。 アルモンテ
揃って日本球界でプレーした兄弟。
兄は投手。巨人でリリーフとして期待されたものの活躍できず。
ドカベン岩鬼のように葉っぱをくわえるスタイルがトレードマークだった。
弟は内野手。日本ハムで金子に代わるショートとして期待された。
金子を開幕二軍に追いやり、開幕直後は積極的に起用されたものの、
期待はずれに終わった。 チェコ
ドミニカカープアカデミーで経験をつんだ後に広島に入団。
背番号106を着けて先発の柱として活躍したが、
活躍したといえるのは1年限り。最終的に、メジャーに行きたい、
と言った後に退団。 鈴木平
某社の選手名鑑に「顔も武器」と書かれ、
某漫画では見開き2ページを使ったネタにされるほど、
インパクトのある顔が特徴。サイドスローの右腕。
ヤクルトからオリックスへのトレードを機にノーコン病を克服。
セットアッパーとしてリーグ連覇、日本一に貢献。
3、4年目あたりから酷使による陰りが目立つようになり、
中日、ダイエーと渡り歩いた後、現役を退いた。
ラルフ・ブライアント
長らく近鉄で本塁打を量産した助っ人。当初は中日に在籍。
当時の中日は郭源治ともう一人野手(ゲーリー?)がいた。
そのため、外国人選手の枠の規制で、二軍暮らしだった。
そこに、大麻所持で逮捕されたデービスの退団により、代わりの助っ人として近鉄が目をつける。
金銭トレードで移籍後はホームランを量産。当時は「ミスター2ラン」と呼ばれた。
「ホームランか三振か」というバッティングで伝説の10.19でもホームランを放ち、
翌年の西武との天王山では4打数連続本塁打も記録。
日米球界においても他に例のない、1シーズン200三振の記録も持つ。 アイケルバーガー
ヤクルトに在籍したピッチャー。
とある年の開幕戦(開幕カード?)の巨人戦で、延長戦、同点の場面でデビュー。
フォアボール連発でピンチを作った挙句、暴投でサヨナラ負けという、
今年の楽天ドミンゴもびっくりのピッチングだった。
その後は見事に開花…することもなく、姿を消した。 Dr.コトー
島民からは「コトー」と呼ばれ、親しまれている。
赴任当初は頼りなさげな風貌や間の抜けた行動もあり、「僻地に飛ばされて
くるようなロクでも無い医者」と不信感もあった。今では絶大な信頼を得る。
怪我や病気を治すだけでは無く、精神的なケアも同時に行う為、星野等には
「癒師」とも言われている。 エディ・ギャラード
2000年シーズンはじめに中日ドラゴンズに入団。
50km/hを超える速球を武器に安定した投球を見せ、オールスターゲームにも
出場する他、35セーブを挙げて、史上初めて1年目の外国人投手として最優秀
救援投手のタイトルを獲得した。
通算セーブ120は2007年現在、外国人投手として日本球界最高記録である。
トニー・バナザード
1988年〜1990年に南海・ダイエーに所属。主にトップバッターとして、
3年間活躍する。小柄ながら俊足巧打で長打力もあり、来日1年目の1988年
に28試合連続安打を記録。
非常に短気で乱闘を起こすことも多く、前述の1988年には8〜9月だけで3度
の退場処分を受けている。
ベニー・ディステファーノ
1990年に中日入り。パワフルな打撃に期待が集まり、オープン戦では期待通りの
活躍を予感させた。開幕戦こそ本塁打を打ったものの、内角球に弱く変化球に崩
されやすいという欠点がたちまち明らかとなり、深刻な不振に陥った。
西武とのオープン戦で鹿取義隆から受けた死球に激怒し、暴力行為によるオープン
戦退場という史上初の偉業をなしとけた。星野監督は「エキサイティングな外国人
が来た」とコメント。
米国では「左投げの捕手」として有名
ネイサン・ミンチー
1998年に広島東洋カープに入団。15勝を挙げ先発ローテーションの中心選手
として活躍。2001年に千葉ロッテマリーンズに移籍し、最優秀防御率のタイ
トルを獲得するとともに史上初の外国人投手両リーグ2桁勝利を達成した。
パ・リーグで外国人投手として最優秀防御率を獲得したのも初である。
中4日で年間を通して投げるタフな投手であった。 ラリー・パリッシュ
ヤクルトスワローズ(1989年)・阪神タイガース(1990年)でプレーした。
打率こそ低いものの2年間で70本塁打(1年目42本)とメジャーリーグ
通算256本塁打の長打力を十分見せてくれた。
好きな食べ物は、「フロリダでは普通に食べるワニの肉」
>>211->>217まで別々の球団の印象深い奴を並べてみた ジェフ・ドイル
南海に在籍。ナイマンと同じ年に入団し、同じ年に退団。
童顔、小柄な身長、俊足、小技が持ち味…という、
外国人選手のイメージを全て覆したタイプの選手だった。
(現役の選手だと、日本ハムの田中賢介に近いタイプ)
成績は悪くは無かったが、定位置の2番に若手内野手・湯上谷が台頭。
長打力不足というチーム事情もあり、惜しくも退団となった。 荘勝雄
ロッテに在籍した右腕。出身地の台湾では、
西武の郭泰源、中日の郭源治とともに英雄として扱われた。
暗黒時代のロッテで毎年2ケタ勝利をマーク。
しかし、チーム名がオリオンズからマリーンズに変わった頃から成績が低下。
現在では日本に帰化し、ロッテのコーチを務める。 ジェシー・バーフィールド
ヤンキース松井が入団したての頃の巨人に在籍。
本塁打はそこそこ打ったものの、打率がかなり低く、
チームに貢献したとはとても言い難い打撃成績だった。
しかし、守備範囲が広さとメジャー仕込みの強肩を生かしたセンターの守備は評価が高く、
巨人が解雇したときに当時ヤクルト野村監督が獲得を希望したほどだった。 ロブ・ディアー
メジャー通算200本以上の本塁打を放った大物助っ人という触れ込みで阪神に入団。
メジャーでは本塁打を量産した反面、三振の多さも凄まじく、毎年最多三振争いをしていた。
粗いバッティングでは日本の投手に対応できないのでは…という予感は見事に的中。
2億円の扇風機と呼ばれた。 ソリアーノ
ドミニカカープアカデミーから広島に入団。
広島では目立った実績はなかったものの、年俸でもめて退団。
その後、メジャーでホームランも打てる1番打者として開花。 ヘンリー・コトー
巨人で外野手としてプレーした助っ人。
スキンヘッドと、左投手に強い打撃が特徴だったが、
外国人選手としては物足りない成績だった。 マイク・ラガ
平和台球場時代のダイエーに在籍。
ホームランか三振かという、外国人選手にありがちなタイプの選手。
凡退すると、ディスティファーノほどではないが、モノにあたってよく暴れた。 ロデリック・アレン
広島に在籍した外国人選手。成績以上に、
デッドボールに怒って、ぶつけた大洋の大門を
横浜スタジアムの外野までしつこく追い回したシーンが有名。
ぶつけた当の大門自身も、その瞬間の表情のアップのシーンで有名になった。
カルロス・ポンセ
大洋で4番を打って活躍した助っ人。
明るい性格と口ひげから「マリオ」の愛称で人気が高かった。 ズーバー
森が監督を務めていた頃の横浜に在籍。
もう一人の助っ人がドスター。
二人とも名前も成績もぱっとしなかった。 リチャード・ランス
1987年に日本の広島東洋カープに入団。
前年に引退した山本浩二の後釜として、大きく期待を受けた。
「三振かホームラン」の典型的なバッターであり、初年度から本塁打王
(39本)のタイトルを獲得と最低打率(.218)最多三振(114個)を記録
フリオ・フランコ
なぜ日本に来たのが不思議なくらいの超大物。
メジャー首位打者、通算3割超えの実績を引っさげて、1995年・1998年ロッテでプレー。
数字どおり3割をクリアーするが、広岡GMとの確執で1年で解雇されたが98年再び戻った。
1982〜2007年まで25年間現役を続けた為、メジャーの最年長記録を多数持っている。
これだけの好打者が日本移籍の背景には、かつて40盗塁近くできた足が故障で衰えた為と
いわれている。 ケビン・ミッチェル
メジャーでMVP及び打点王、本塁打王の二冠に輝いたスター選手。
1994年オフにフリーエージェントとなり、1995年は推定年俸4億円以上を提示した
福岡ダイエーホークスに入団。メジャー本塁打王の実力の片鱗は見せたが、故障で
離脱。無断帰国で解雇された。元々メジャーでも問題児ぶりは有名であったようだ ボビー・シグペン
90年に1シーズン57Sのメジャー記録を樹立したこともあるリリーフ投手。
94年の6月にシーズン途中ダイエーに入団。目的はもちろん、ストッパーとしてである。
といっても、速球でガンガン押していくタイプではなく、変化球で打たせて取るタイプ。
2年間で20Sだったが、防御率は1点台を記録 ジャック・ハウエル
来日年度は首位打者、本塁打王に輝きヤクルトの優勝に大きく貢献。
2年目のジンクスも、なんのその翌年も成績こそ下回ったが、
シーズン5サヨナラ本塁打(日本記録)など勝負強いバッティングを見せつけ
野村ヤクルトのリーグ連覇の立役者となる。
マット・ウインタース
1990年に日本ハムに入団。打率は2割7分〜8分台だが、入団以来4年連続30本塁打以上と大活躍。
本塁打王を一度も獲得していないのは当時、西武でプレーしていたデストラーデがいたため。 エルビラ
近鉄に在籍した投手。通算成績は大したことはないが、
打線が弱かった頃の西武相手とはいえ、
ノーヒットノーランを達成したことがある。 アレックス・オチョア
中日が大物メジャーリーガーのケビン・ミラーを獲得しようとした際に、
入団する、しないでメジャー複数球団、選手会を巻き込んだ騒動が発生。
最終的に、ミラーはレッドソックスへ移籍。
中日は補償や謝罪をしてもらったことで、問題は終結。
このとき、代わりに獲得したのがアレックスだった。
外国人選手としては、バッティングは物足りなかったものの、
強肩を生かしたセンターの守備で、バッティング以上に貢献した。
解雇されて一旦アメリカに帰国するが、解雇の翌シーズン途中に広島に入団。
ナイジェル・ウィルソン
上田が指揮していた頃の日本ハムに在籍。
ひざが悪かったために出場はほとんどDH。
ひざの怪我の影響で、ほぼ1年間出場できなかったこともある。
ただ、バッティングは優秀で、打率は平凡だったが、
ホームラン王、打点王のタイトルを獲ったこともある。
1年だけ在籍した近鉄では活躍できなかった。 DTクローマー
日本ハムに2年か3年くらい在籍。
どの年も全く目立たなかった。
残留できたのは複数年契約だったからか? トーベ
ダイエーへ移籍したブーマーに代わる助っ人として来日。
風貌、プレースタイルともにブーマーとは全く異なる選手だった。
ブーマーは恰幅が良く、ホームランを量産する選手だったのに対し、
トーベはガリガリに痩せていて、アベレージヒッタータイプの選手だった。
来日1年目は規定打席ギリギリで打率3割を記録したものの、翌年はさっぱりだった。 ベッツ
ヤクルトに在籍。変わった打撃フォームをしていた…と思う。
巨人に移籍したペタジーニに代わる助っ人といわれたが、
その抜けた穴はあまりにも大きすぎた。 ホージー
野村が監督をしていたヤクルトでプレー。
来日当初はダメ外人扱いされていたが、
開幕後はホームラン王を獲る大活躍。
プリクラを大量に貼ったヘルメットを被って練習するなど、
ユニークなキャラクターで人気が高かったが、
西武からきた辻とベンチでケンカしたことがある。 パグリアルーロ
デストラーデを引き抜かれた西武が代わりに獲得した選手。
外国人選手でありながら、外国人が嫌う傾向にある背番号13を好んでつけていた。
メジャーでの実績はなかなかのもので、年俸などの待遇も結構良かったはず。
しかし、結果は期待はずれなものだった。 チャールズ・ケアリー
藤田監督時代の巨人に在籍。当初はストッパーとして期待されていた。
その期待には応えられず。代わりにストッパーに定着したのは石毛。 タネル
平和台時代のダイエーに在籍。
球威があまりないうえに本拠地が狭かったこともあり、
ホームランをぽんぽん打たれていた印象が強い。 ボニチ
オリックスに在籍。ウエスタンリーグで規定打席不足ながら三冠王を獲ったことがある。
一軍ではさっぱり。 アダム・リグス
ダニエル・リオス
共にヤクルト、二人とも今季途中カイーコ リグスって辞めたの?豊田からホームラン打ってなかったか? ブライアン・ウォーレン
小林雅の前のロッテのストッパー。
タイトルを獲ったこともあり、ストッパーとしての実力は十分だったが、
ボールに傷をつけた不正投球をした、していないという問題で、
西武や審判団を挑発したり、中指をたてるポーズをしたりと、
素行が悪かった。 ボブ・ミラッキ
近鉄に在籍した外国人投手。
「速球が武器のピッチャーはコントロール難で活躍できない。」
という近鉄伝統のジンクスに見事にはまった。 マック鈴木
日本のプロ野球でプレー経験なしでメジャーに昇格した一番最初の選手。
(ちなみに2人目は現北海道日本ハムの多田野)
かつてユマキャンプに参加した縁があったことから、
当初はヤクルト入りが濃厚と思われていたが、
マックの地元球団のオリックスが先に指名した。
シーズンが始まってもいないのに「新人王は辞退する」と発言したものの、
その内容はとても新人王とはいえない、惨憺たるものだった。 ルイス・アキーノ
蛸に例えられた独特の投球フォームが特徴の右腕。
近鉄でエース的な活躍をしていたが、なぜか解雇された。 ボブ・ウォルコット
梨田時代の近鉄に在籍。
梨田には「15勝できる」と太鼓判を押され、来日1年目で開幕投手も任された。
最終的に、梨田の予想の半分も届かず、期待はずれに終わった。 ベン・オグリビー
メジャーでは本塁打王も獲ったことがある大物外国人選手。
かなり高齢での来日で、しかも奇妙なバッティングフォームながら、
打率3割を打って主軸として活躍した。日米双方でオールスター出場経験がる。 ダニエル・カール
日本で活動するドイツ系アメリカ人の翻訳家、及びタレントである。
「山形弁研究家」という肩書きも持っており、流暢な山形弁を話すアメリカ人として人気を集めている。 ハーマン・リベラ
89年優勝時の近鉄の4番バッター
チャンスに強く、印象に残るホームランを叩き込んでは、
独特なバット投げを見せた。 レックス・ハドラー
野村ヤクルト初の日本一のときのセカンドのレギュラー。
ミミズを拾って食べてみせたことから、「ミミズ男」の異名があった。
8番打者ながらホームランを量産し、打率も3割打ったが、
守備のまずさから1年で退団となった。 エリック・シュールストロム
クローザーとして日本ハム、広島に在籍。
現在は広島の海外担当スカウトとして、
外国人選手探しをしている。 ルイス・ロペス
広島の球団史上でも屈指の優良外国人選手。
足は遅いし守備もだめだったが、チャンスに強いバッティングは随一。
来日していきなり打点王を2年連続(3年?)で獲得。
あっというまに年俸は高騰し、高年俸を払えない広島は泣く泣くロペスを放出。
脱税事件で長期出場できない小久保に代わる打者として、
ダイエーで1年だけプレーし、その後一旦日本球界を離れる。
しばらくして、江藤の巨人移籍で得点力の下がった広島に復帰。
以前と変わらないバッティングで活躍したが、
自分のヒットでホームインしなかった前田に激高する事件を起こしてからは、
成績も下降していった。 ルイス・ロペス
楽天の球団史上初の外国人選手の一人であり、初代4番打者。
応援歌はドリフのテーマ。 ケビン・ウィット
横浜にいた助っ人。ホームラン量産を期待されたものの、
粗い打撃で日本の投手に対応できなかった。
マイナーリーグで数年プレー後、楽天で日本球界復帰を果たすが、
やっぱり日本の投手に対応できなかった。 マックス
メジャーでもそれなりの実績がある大物助っ人。
ピンクユニフォーム時代のロッテに在籍。
クリーンアップとして期待されたものの、
ホームランは10本台にのせるのがやっとという感じで、迫力不足だった。 アップショー
福岡移転元年のダイエーに何億円もの年俸で呼ばれた大物助っ人。
1年目は杉浦監督の下でそれなりに活躍したものの、
2年目は田淵とケンカして退団した。 キャリオン
バレンタイン退団後、再び訪れた暗黒時代のロッテでプレー。
メジャーでの実績は大物助っ人と呼んでもいいレベルのもので、
ロッテでも4番で起用されていたものの、とにかくやる気がなく、
あれこれ理由をつけては休みまくりで成績も振るわなかった。
フリオ・フランコが復帰してからは人が変わったような活躍を見せるが、
ケガのために長続きしなかった。 バナザード
南海末期の助っ人二塁手。
とても貧乏球団が獲ってきたとは思えないような大物助っ人で、
唯一の欠点は短気な性格で乱闘・退場をくりかえしたことくらい。
南海ホークスから福岡ダイエーホークスに変わってからも在籍していた。 ブランボー
近鉄と合併したばかりのオリックスに在籍していた外国人選手。
マジックで描いたかのようなもみあげ、髭が特徴。 デシンセイ
東京ドームの公式戦初本塁打を放ったヤクルトの助っ人。
全盛期はとうに過ぎていたとはいえ、メジャーでは攻守にわたって活躍した超大物三塁手。
しかし、来日したのと同じ年に、ポジションが同じ一茂が入団。
「お前がいるから、一茂が試合に出られないじゃないか」とファンに言われ、泣かされていた。 マドロック
メジャーでは首位打者を何度も獲得し、通算2000本安打も達成。
「狂犬」の異名をもつ超大物メジャーリーガー。
ロッテ入団時はすっかり過去の話で、成績は期待はずれ。
川崎球場の「マドロック立入禁止」の落書きは有名。応援歌はサザエさん。
近鉄とのダブルヘッダー「10.19」ではホームランを打っている。 テリー・ハーパー
1980年以降のアトランタ・ブレーブスで中心選手として活躍、1988年にヤクルトに入団
4月中旬に右膝を故障し、治療のため帰国しそのまま退団 10試合出場 ロバート・J・レイノルズ
外野手 '91-92 大洋 '93 近鉄
'91 ベストナイン、ゴールデングラブ賞 チャールズ・ケアリー
巨人に在籍し、現ヤンキース松井の前に背番号55をつけていた投手。
抑えで期待されたものの、石毛の台頭もあり、活躍できなかった。 エリック・ヒルマン
身長2メートルを越える長身に似合わない、
スリークォーター気味の投球フォームで凡打を打たせるのを得意としていた左腕。
第一期バレンタイン監督下で、伊良部、小宮山とともに先発三本柱で活躍。
ロッテでは活躍したが、巨人移籍後は給料泥棒と化した。
肩痛で戦線離脱するときの言い訳「肩に小錦が乗っているみたいだ。」の発言で有名。 ホージー
野村ヤクルトに在籍。来日早々にダメ外人のレッテルを貼られたものの、
いざシーズンインすると、3番レフトに定着。明るい性格でも人気を集めた。
外国人選手としては小柄な方だったが、ホームランを量産してタイトルを獲得した。
来日2年目は他球団に弱点を研究されたせいか、活躍できずに退団。
西武から移籍してきた辻とケンカをしたことがある。 goo辞書の和英検索ランキングの一位がヌード写真って
確実に変換したものをアマゾンにぶち込んで海外産のポルノを得ようとしとるやん
この変態国家!! 常に考えても見えて
アスリートは体がなんだよこの会社の家宅捜査してあげたらオタは感謝こそすれまさか悪口なんてできるな >>287
顔引きつってたから
プライム維持のためにパパ活匂わせ描写入れるところまでがセットや えー
でもさすがにファンタジーすぎて大河では「どやっ!」だと思うから順調やないときついわ
レスターしれっと最下位争い全部熱いな
あんなサンダル幾らでも起こしてたんやろ?個人的には穴しかないじゃない 引っこ抜かれてもその辺でまた生える
わいの方がマシだね