【不敬】皇族でオナニーするヤツらってさ [無断転載禁止]©bbspink.com
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ナポレオンがオナニー依存症だったて聞いたんだがwww 眞子様や佳子様、愛子様でオナニーとかあまりに畏れ多いんで
想像さえしたこともない。姉貴の少女漫画をこっそり読んで以来
十二単と黒髪フェチなんだが皇族でなくても貴族のお姫様で妄想
がかなえられたら十分だよ。武家が台頭して下剋上の世になって
から貴族の女性は身分卑しい足軽どもに犯されたり、将軍や大名の
側室にさせられたりしたからプライドずたずただな。 江戸時代には幕府批判はご法度とされたが、
皇室に対しては特に不敬罪が存在せず、
称徳天皇と道鏡、建礼門院徳子と源義経が
身分の差を超えて愛し合うような内容の
川柳やエロ文学が好んで作られたという。
鎌倉時代の武将、高師直が塩冶高貞の妻に
懸想して高貞の妻の入浴シーンを覗いた上に
旦那さんに謀反の罪を着せて奥さんを奪い取ろうと
計画して失敗した話は有名だが、絶世の美女と伝えられる
この女性は宗尊親王の孫娘とか後醍醐天皇の側室だったとも
言われてるんで、身分の高い女性といいことしたいという
男の願望は今も昔も変わらないようだ。 道鏡に根まで入れよと詔
道鏡に崩御崩御と称徳言い
義経も母をされたで娘をし
門院は入水のほかに濡れ給い
門院は赤貝にでもなるところ それでも皇族をオカズなんてあり得ない
せめて首相夫人だろ
それか社長令嬢な
もっと下がって女教師とか上級生、OGあたり 男は上淫を好み、女は下淫を好むとか
上品は下淫を嗜み、下品は上淫を望む
というから、身分の高いお嬢さんと身分の低い
貧乏男のセックスとか貴族の女と武士の男の
セックスは激しく燃え上がると思う。 平成初期に皇族になった人の弟って、お姉さんが皇族になる前どうしてたのかな?
7歳違いで、思春期まっただ中の中学時代に姉は大学生。
父親が勤める大学の、広いとは言いがたい教職員住宅に一家で住んでいたから、もしかしたら裸になった姉の姿を見る機会があったかもしれない。
姉の使用済み下着をチェックしていたかもしれない。
そうでなくても干してある姉の洗濯物は嫌でも目に入るだろう。
それで何も行動を起こさずに済んだのだろうか。 5、6年ぐらい前だったか
週刊漫画TIMESに在原業平と清和天皇の
皇后、藤原高子とのスキャンダラスな関係
を描いた漫画が連載されていたな
帝や皇族の不倫やセックスが描かれた
なんとも不敬な内容だったような 室町幕府三代将軍の足利義満は天皇や宮さまの妻に
手を出しました。義満は後円融天皇の宮人三条厳子を犯して
後小松天皇を産ませました。後小松天皇の後即位した称光天皇
と後花園天皇も義満の孫で彼の血を引く天皇は幕末まで続きました
と太田龍氏が言っていましたが、果たして真相はいかに。 18歳の足利義満が25歳の三条厳子を手籠めにする
場面って年上好きの男には堪らん話だな。 漏れは眞◯さまの御オナニが見たひ
神がマンズリなさるところとか見たら
脳汁プシャーだな 聖武天皇は56歳まで生きたのに27歳以降子作りしていない
から同い年の光明皇后は欲求不満だったはずだ。30歳の藤原仲
麻呂は35歳の叔母の光明皇后と光明皇后の娘で仲麻呂の従妹に
あたる18歳の孝謙天皇を交えて母娘丼プレイをできる状況にあった
と俺は想像している。 孝謙天皇は初め仲麻呂が好きだったけど
年をとってから道鏡を好きになるんだよな。
孝謙天皇を始皇帝の母、藤原仲麻呂を呂不韋、
道鏡を嫪毐に譬えたことから道鏡巨根伝説が生まれた。
これマメな。
それにしても壇ノ浦野合夜合戦記が終わった後の義経は
兄の頼朝に追われて悲惨な死に方したな。俺が義経だったら
嫪毐を真似して平徳子との間に男の子二人作るね。徳子が産め
ないときは時忠の娘に産ませるまでだけど。天皇の妻であり
母である4歳年上の若い未亡人を犯すということにロマンを
感じない男がいるかっての。
まず鎌倉を攻めて頼朝を殺し徳子が産んだ男子を>>10の話の
締めくくりのように源氏の棟梁にする。
で、次は後白河法皇を脅して徳子が産んだもう一人の子どもを
天皇に即位させる。チンギスハーンになったと言われる男なら
それぐらいのこと朝飯前だろ。 塩冶高妻貞出浴図 後嵯峨天皇の曽孫であり後醍醐天皇の側室から
後に塩冶高貞に嫁いだと伝えられる弘徽殿の西台。高貞は初め
南朝方だったが後に北朝の足利尊氏に従った。彼女の美貌を耳にした
女好きのばさら大名、高師直は彼女に言い寄りさらに入浴中の裸体を
覗き見た上に彼女を我が物にすべく夫の高貞に謀反の罪を着せて殺そう
とするが、弘徽殿の西台は師直に貞潔を汚されることなく、夫や幼い
息子たちと運命を共にしたと伝えられる。仮名手本忠臣蔵の顔世御前のモデル。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/e1e/7521/20080427_502955.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/201103/13/04/b0044404_17515918.jpg 壇ノ浦夜合戦記 頼山陽または塙保己一の作と伝えらえる春本(下は書き下し文)
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/dannoura.htm
栄華をきわめた平家一門は源氏との戦いに負け続け、壇ノ浦の合戦で安徳天皇と神器を抱
いた平時子(清盛の妻、二位尼)とともに入水して滅びたが、源義経と彼の家臣たちは
建礼門院平徳子や女官たちという死に損なった女たちを海から救い上げた。高貴な彼女たちは
自分より身分の低い敵方の武将たちの愛人にさせられた。義経は徳子の美しさ(特に肉体の)
の虜になり、亡き高倉天皇の妻で先帝の母という徳子の尊い身分と一族を失ったショックから
立ち直れない状況に気を配りながらも、平家でまだ生き残っている徳子の甥、維盛の命と引き
換えに徳子の貞操を要求し、ついに二人は結ばれる。初めは恥じらっていた徳子だが、
義経の逞しい肉体と巧妙なテクニックに流され今まで味わったことのない女の悦びに
目覚めてしまう。
http://auctions.afimg.jp/item_data/image/20150902/yahoo/n/n153811214.1.jpg
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr130/auc0303/users/5/8/8/9/shokokita-img479x600-1363951547kpn8cm31029.jpg 着物フェチの俺がもし平安時代や室町時代に生れていたら
十二単に身を纏った公家の姫さまに手を出してみたかった
壺装束を着て遠出する高貴な女性をレイプして妊娠確実なぐらい
中出ししまくりたかったなあ
天皇家の姫さまとなるとはさすがに畏れ多いけど
でも斎宮だった皇女様もしょっちゅう男に犯されて解任されてるしなあ
戦国時代の公家は零落してて地方の大名を頼って生活していたから
その大名が滅ぼされた際、敵方の雑兵が公家の妻や娘をレイプする
みたいな性の下剋上はかなりの頻度で起こっていたと思う
小〇君が〇子様と将来十二単着衣プレイをする可能性
がゼロとは言えないと思うとなんだかうらやましいな >>27
俺は後小松天皇はきっと足利義満と三条厳子の不義の子の
確率が高いと思う。しかし後円融天皇があまりにもお可哀想だ。
後醍醐天皇のように性欲絶倫で子だくさんな天皇も多い(記紀に
よる第12代景行天皇は80人の子どもがいたと伝えられている)から、
仮に北朝の血筋が途絶えていて、明治天皇が実は自称南朝のどこの
馬の骨か分からない人だったとしても絶対に神武天皇の血を引いて
いないとまでは断定できず、万世一系は案外保たれているのではないか
と思う。義満だって清和源氏だしね。 ✕十二単に身を纏った
〇十二単を身に纏った
うわあ恥ずかしい… 普通に皇族本オカズにしてる。主に佳子さま。愛子は無理。普通に可愛いと思うけど対象にはならん 源頼定(977〜1020)平安時代中期の公卿 為平親王の二男
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%9A
源頼定は村上天皇の孫に当たる人物で、一条天皇や三条天皇とは従兄弟に当たる。
一条天皇の時代、東宮だった居貞親王(三条天皇)の尚侍、藤原綏子と密通して彼女を
妊娠させたため、このことを激しく怒った三条天皇の在位中は、昇進はおろか昇殿も許されなかった。
綏子との間に生れた男子は大僧都頼賢ではないかと伝えられている。
また、頼定は一条天皇が亡くなった後、天皇の女御で孤閨を託っていた藤原元子と密かに
情を交わし始めた。元子の父、藤原顕光はこのことを知って腹を立て、元子の髪を切って
出家させたが、その後も二人の関係は続き、元子は頼定との間に女子を二人産んだ。
彼は越中守・橘輔政の娘を正室としていたが、彼の女性関係については、天皇の「妻」だ
ったこの二人の女性との密通騒動のほうが有名である。 三条天皇と藤原綏子との関係が甥と叔母というのが
なんかすごくいやらしくて萌えるんだが、綏子の異母兄の
藤原道長のやったことがこれまたすごいもので、女房装束を
無理やり脱がせておっぱいを捻って母乳が出たことで妊娠が
判明したという話がとてもエロい。 >>4
>武家が台頭して下剋上の世になって から貴族の女性は
>身分卑しい足軽どもに犯されたり、将軍や大名の
>側室にさせられたりしたからプライドずたずただな。
一概にそうだとは言えないと思う。
案外天皇よりむしろ身分が下の男のほうが、自分を女神さま
のように崇め奉って正妻待遇で敬ってくれるから、
彼女たちにとっては幸せかもしれない。
天皇の後宮に入っても天皇は后妃を何人も侍らせているから
天皇の寵愛を独占するのは難しい。
新田義貞や塩冶高貞は後醍醐天皇から妾さんをもらっているし、
高師直は天皇の後宮に入る予定だった二条道平の妹を浚っているが、
女の立場からすれば、天皇よりもこういう地位が下の男に嫁いだほうが
源頼定と藤原元子のように夜の営みの回数も多くなって
子供も生まれて円満な夫婦生活を送れるはずだ。 しゅ子内親王(高松院)(1141〜76)は二条天皇の皇后(しゅは女偏に朱)
鳥羽上皇の 母は藤原得子(美福門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
同母兄の近衛天皇が亡くなった後、
保元の乱の直前、甥にあたり母美福門院のもとで
育てられた守仁親王(二条天皇)の妃に立てられた。
守仁親王の父後白河天皇は近衛天皇から二条天皇への中継ぎとして即位させられた
だけだったので、保元の乱が終わり崇徳上皇が流罪になるとまもなく譲位させられた。
二条天皇は英明な君主と評され父後白河上皇との仲はうまくいかず、上皇を排除して
自ら親政したことは有名である。
しゅ子内親王と天皇の間には子どもは生まれず、天皇は彼女の他に多くの女性を后妃に立てた。
藤原忠通の養女育子の入内が決まるとしゅ子は院号宣下を受け事実上皇后の地位を追われる
ことになった。二条天皇は1165年に六条天皇と二男一女を残して23歳で亡くなった。
この後政局は後白河上皇(姝子の異母兄にあたる)が主導するようになり、1168年、
上皇は六条天皇を譲位させ寵姫の平滋子(建春門院)が産んだ高倉天皇を即位させた。
しゅ子は院号宣下を受けた後は仏道にひたる日々を送り、1176年に36歳で亡くなる。
死因は食欲不振・痢病と発表されたが、それは誰にも信じられなかったという。
何の病気の噂もなかったしゅ子が急死したことに公卿の吉田経房は不審を抱き
日記『吉記』に記録した。
九条兼実の日記『玉葉』によると、しゅ子はどうやら1171年頃天台宗の僧澄憲と密通し
1172年に澄憲の弟子とされる海恵を産んだようである。また澄憲の娘とされる歌人、
八条院高倉が生れた頃に亡くなったことについて、角田文衛はしゅ子が高倉を産んだとき
早産だったため大量出血で亡くなったのではないかと指摘している。
天皇の未亡人、しかも皇室出身の女性、治天の君の妹を二回も妊娠させた
このエロ坊主が羨ましい。 (二行目)
鳥羽上皇の
→鳥羽上皇の皇女
誤字・脱字が多くてすみません。 中学の時、大和和紀の「あさきゆめみし」で
天皇の後宮に入ったか入る予定だった女性が
光源氏と睦み合っていた場面で一発抜いた記憶がある。
たぶん、朧月夜(内侍の君)とかいう女性だったかな。
ほかにも、手塚治虫の「火の鳥」にも木曽義仲が入京した後
家来が京の高貴な女性を犯しまくるシーンがあったそうだ。
ああ、高貴な女性と一発やりてえ。 平安時代の公家の娘等は栄養失調で外に出る事もないから
青白くて不健康で現代の感覚では無理。 現実の皇族や公家はブサイクで貧弱体形で
結局イケメンの皇族や公家、美人のお姫様は妄想
の中だけにしかいないんだよな(;_;)
失礼だが三次元はゴミ、二次元は最高というのは
彼らにも当てはまるんだな
絵空事とはよく言ったものだ 高師直が皇族や公家の女性に手を出して、皇室出身の
人妻(そもそもこんなことありえるか?)に懸想して
その旦那に謀反の罪を着せたり、太政大臣の妹にまで
手を出して妊娠させた話とか
源頼政が鵺退治のご褒美に女房ひとりもらった話とか
道鏡が女帝と枕をともにした話とか
庶民の天上人に対する淫らな欲望はいつの時代も変わらないもので
武家政権の力が強くなって朝廷の力が弱くなってから
後世の人がオナニーのおかず用に事実以上に話を膨らまかしたり、
なかったことをでっちあげたりして作ったものも多そうだね
壇ノ浦の戦いで源氏の侍たちが熊手を使って
海に飛び込んだ平家の女房たちを引き上げる絵を見て
こいつら絶対助けた女を自分の妾にするつもりだろ?
と中学生時代の俺は思ったが、江戸時代の人も同じことを
考えたんだな でも、戦争続きで長いこと風呂に入ってない
から体臭強烈だろ その日にレイプとかありえんわ…
というのは現代人の感覚なんだろうか おまいら、眞子様や佳子様、絢子様に真剣に
惚れ込んでるなら高師直ら先人を見習って
皇族の女性を略奪婚するんだ 後世に名を残せるぞ どえする!?K小室が法律学びにアメリカに行っちゃった!!
一人日本に残されたうら若き姫君、
婚約中の彼と遠距離…何も起きないはずがなく… 日本最初の女性の天皇は推古天皇であることは
誰でも知っているだろう。ところで彼女の名は
額田部皇女で、即位する前異母兄の敏達天皇の后であったこと、
敏達天皇の喪の最中に異母弟の穴穂部皇子に強姦されそうになった
話とかみんな知ってるかな?この時代の皇族は
障害児が生れてもおかしくないほど近親婚しまくりだ。
夫の敏達天皇の母は、父欽明天皇の兄宣化天皇の皇女石姫で、
推古天皇から見ると異母兄である夫は従姉の息子でもある。
敏達は推古より16歳年上だったことが通説になっているが
愚管抄では5歳年上とされている。
また、穴穂部皇子の母蘇我小姉君は推古の母蘇我堅塩媛の妹
なので、従弟から犯されそうになったということだ。
敏達が亡くなった後、推古の同母兄である用明天皇が
即位したが、用明天皇の后も小姉君の産んだ穴穂部間人
皇女で、従妹にも当たる腹違いの妹だ。穴穂部間人皇女
が産んだのがあの有名な厩戸皇子こと聖徳太子だ。
この穴穂部間人皇女は、古事記によると用明天皇が亡く
なった後、用明と先妻の蘇我石寸名(用明の叔母である)
との間に生れた田目皇子と再婚して佐富女王を産んだ。
義理の息子とはいえ10歳は年が離れていただろう。
天皇の后であった女性が義理の子と姦通して子どもを産む
とか現代では考えられない話だ。推古天皇は聖徳太子の
お母さんであるこの淫乱(?)な女性を嫌っていたという。 用明天皇や推古天皇を産んだ堅塩媛という女性は
その一生で七男六女も産んでいる。仮に17歳ぐらいから
一年おきに子どもを産んだとしても最後の子どもを産んだ
ときは40歳を超えていたはずだ
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である
古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ
欽明天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage629.htm
推古天皇はなぜ、自分の娘たちを同族の厩戸皇子よりも
継子にあたる押坂彦人大兄皇子に嫁がせていったのか
「推古天皇の継承問題」によると、穴穂部間人皇女や
厩戸皇子ら、小姉君系の一族を嫌っていたからだという。
厩戸皇子の実の父親が蘇我馬子ではないかという疑惑の真相は?
押坂彦人大兄皇子について
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage634.htm >>51の訂正
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である
古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ
↓
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である欽明天皇
について、古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ 欽明天皇の年齢より
>意味のない比較かもしれませんが、天武天皇は10人の后妃で17人の子供を
>なしました。豪族間との広い付き合いが垣間見える気がします。継体天皇も同様です。
>これに比較すると、欽明天皇は地味で真面目な性格のように見えます。
>狭い宮廷環境の中での生活が中心であったことがわかります。
江戸時代の後水尾天皇は19皇子17皇女を儲けているけど、36人もの子女を
産ませるのに何人の女性を必要としたかというと意外にもたったの7人で、
天皇が寵愛した女性たちが多産だったことが分かる。
天皇の女性関係や子どもの数を知ることで、天皇の性格も見えてくる
という視点はなかなか面白い。 >>50
>この穴穂部間人皇女は、古事記によると…
これも違う。古事記ではなく上宮聖徳法王帝説によるとだ。 女性が義理の息子と関係を持つのはけしからんというが、
神武天皇が亡くなった後、神武が故郷から連れて来た
長男のタギシミミは、神武が大和で娶り、
カムヤイミミと綏靖天皇を産ませたヒメタタライスズヒメ
と再婚している。神武天皇が76年も在位したというのは
日本書紀にありがちな大げさな誇張で実際には在位20年未満で、
彼が亡くなったとき、妻のヒメタタライスズヒメはまだ30代で
10代の子どもを持つ若い未亡人だったから再婚できたのだろう。
おそらくタギシミミはヒメタタライスズヒメとの間に子どもが
できることを期待してカムヤイミミとカムヌナカワミミ(綏靖
天皇)を殺そうして、逆に彼女の子どもたちに殺されたのではないか。
他には、ヒメタタライスズヒメと綏靖天皇の后のイスズヨリヒメの名前
が似ているから、綏靖天皇は神武天皇の身内かもしれないが、ヒメタ
タライスズヒメの子どもではなく、神武天皇の死後、タギシミミと綏靖
が彼女を巡って対立したのではないかと考える人もいる。
敏達天皇が亡くなったとき、皇后の額田部皇女は32歳。自分こそが
天皇になるのに相応しいと思っていた穴穂部皇子も額田部皇女を犯して
皇子を産ませようと考えていたのだろう。 他に第8代孝元天皇の妃のイカガシコメも天皇との間に彦太忍信命
(武内宿禰の祖父)を産んだ後、夫の死後継子の開化天皇と
結婚し崇神天皇を儲けている。ただし、最初の十数代の天皇は
順調に親子継承ができておらず、同世代の天皇が何人か重複している
という見解もあり、孝元と開化は親子ではなく兄弟ではないかとい
うこともありうるし、崇神は孝元の息子で、開化はその中継ぎだった
かもしれない。それ以外には、崇神天皇からが新しい王朝で、前王朝の
開化天皇と無理やり血筋で繋げるため、こんなありえない婚姻関係で
生れたことにされているんだという説もある。
箸墓古墳の埋葬者とも言われる第7代孝霊天皇の皇女
ヤマトトトビモモソヒメは第10代崇神天皇の時代に大物主神の妻
になったと伝えられるが、日本書紀の年数をそのまま受け入れ、
孝元57年、開化60年を跨ぐと、百数十歳の枯れ木のような
お婆さんになってしまい、いくら大物主神が物好きでも…という話になる。
彼女が崇神天皇の大叔母ということはあるまい。ありえても姉か妹では?
きっと遅くても30歳ぐらいの若い女性だったろうと思う。
それかこの物語は崇神天皇より前の出来事で、それが崇神天皇の時代の
記事に紛れ込んだか。陰部に箸(当時はなかったそうだが)を突き刺して死ぬ
という死に方はかなり奇怪に思える。 叔母さんとセックスした天皇てどうよ?
草壁皇子と元明天皇、後朱雀天皇と藤原嬉子みたいに
年齢が近いカップルはまあいいとして、
母親の11歳年下の妹で9歳も年上の藤原威子と皇女を二人儲けた
後一条天皇、母親の7歳年下の妹で11歳も年上の西園寺公子と皇女を
三人も儲けた後深草天皇はすっごい物好きとしか思えない。 白河天皇(1053年生まれ)も年上の女御藤原道子(1042年生まれ)
との間に善子内親王を儲けたけど、天皇の寵愛は間違いなく
4歳年下の中宮源賢子(1057年生まれ)に向かっていた。
そもそも白河の父、後三条天皇(1034年生まれ)の感覚がおかしい。
後三条天皇は15歳年下の源基子(1049年生まれ)を寵愛して、実仁親王と
輔仁親王を産ませ、白河天皇には11歳年上の藤原道子を押し付けたわけで…。
普通逆にすべきだろ。白河天皇はお父さんとは8歳、お母さんとは5、6歳ぐらいしか
違わない道子とよく子どもを作る気になれたものだ。
白河天皇は中宮賢子の死後、父後三条天皇の遺命を破って、輔仁親王には譲位せず、
賢子の産んだ堀河天皇に譲位したが、賢子の養父が摂関家の藤原師実であり、形
式上藤原氏を母とする天皇を立てたことが、祖母で後三条の母、禎子内親王(陽明門院)
を立腹させた。そこで堀河天皇が13歳になると妹で堀河より19歳も年上で
32歳の篤子内親王を入内させたが、天皇がこんなに年の離れた叔母さんに興味を示すはず
もなく、陽明門院もなくなって後、天皇が20歳になった年、白河法皇は自分の母方の伯父
藤原実季の娘で従妹にあたる23歳の苡子を天皇の後宮に入れた。堀河天皇と藤原苡子との間に
生れたのが鳥羽天皇である。なお、この頃、摂関家の藤原忠実も父師通の従妹に当たる
8歳年上の源師子(賢子の妹)を妻に迎えて泰子と忠通を儲けた。師子は白河上皇の愛妾で、
皇子を一人産んだが、この頃は上皇に飽きられていた。そこへ忠実が祖母の源麗子を通して
「師子殿を私の妻にください」とお願いしてきたので上皇は即座に師子を忠実に与えた
という。
親の従妹が自分の妻てなんか妙に萌えるな。 >>51
>>56-57
変態サヨクは国家の正史を色眼鏡で曲解しないで
文字通り信じなさい 大昔の天皇は百歳を超えても
若々しかったのです 倭迹迹日百襲姫命は120歳を
超えてもなお美人だったのです 姫蹈鞴五十鈴命も
90歳の老齢でなお美人だったのです 現代人の常識
にとらわれてはいけません
旧約聖書に登場するアブラハムの妻、サラが90歳に
もなるのにペリシテ人の王アビメレクの目に留まった
話を知らないのですか 花山天皇は正式な后がなく、乳母と乳母の娘の両方に
手を出して子どもを産ませました。母娘丼の元祖です。
>>60
無理なことを言うな
120歳や90歳の美人とかめっちゃ萎えるわ 122番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 12a2-2QVD)2018/08/01(水) 03:22:05.67ID:r+gnMOdz0
近親婚と近親相姦は区別しような。
いとこ以上離れていたらとりあえずセーフなんで。
親子婚はいくら古代の天皇でもやってないだろ。
あっでも、聖徳太子の親族は兄妹婚していたし、
平安時代の花山天皇は自分の乳母とその娘
の両方に手を出して子どもを作ったし、平城天皇は
自分の妃の母親の藤原薬子(旦那がいた)と不倫関係
になったし、安徳天皇の母平徳子は夫の高倉上皇が
早死にしたとき義父である後白河法皇の後宮に入っては
どうかみたいな話を持ちかけられたし、鎌倉時代では
後宇多上皇との間に後醍醐天皇を産んだ五辻忠子も
後に義父の亀山法皇に寵愛されたりしてるから
昔の天皇家の倫理観はどうにかしてるとは思う。 日本史の主な舞台たる畿内は昔からさぞや美人揃いだったのでしょうね
【まったり】関西美人との肉体関係【イカせてんか】
http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/kageki2/1533832220/ 主題歌
【性獣?そう言われても構わない!
ここは関西美人とハメたハメられた経験or願望を持つ人が集うスレなのである】
語れ! 子宮狭しとハメまくれ(キンタマ)
語れ! 口内深くしゃぶらせて(キンタマ)
どエロ!どエロ!どエロ! キンタマ!(キンタマ)
精子入り込む足音を聞け 強く激しく 誰よりもエロく
沈む心も 燃え上がるのさ(キンタマ)
関西美人にキンタマ! 関西美人にキンタマ! いつでも雄叫び とどろかせ
関西美人にキンタマ! 関西美人にキンタマ! 近畿を貫く kinky肉棒
性獣変態 キンタマ 太平記 現代語訳 21-7 高師直、塩冶高貞の妻を恋慕す
http://runw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/21-7-f9f0.html
人妻大好き黒執事・高師直は★4つ 家臣の妻の風呂を
覗いてコ―フン止まず自殺に追い込む
https://bushoojapan.com/scandal/waru/2016/08/17/82474
ザ歴史! 彼方が忘れている日本の歴史がここに!
http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E8%AA%95%E7%94%9F
>そのため師直の兄である師泰は侍所の長官に取り立てられ、兄弟そろって足利幕府
>の軍事上の権限をゲット。大活躍の師直はだんだんと態度がでかくなってきたのです。
>昔っから四位以下の官位の者はボロい家に住まなきゃなんないのに、しきたりを気に
>しない師直はめちゃくちゃ豪華な家を修築して贅沢な生活を始めました。
>また大の女好き。公卿の娘だろうが皇族の女性だろうが手を出しまくり。美女と見ると
>相手かまわず手をつけたのです。しかも飛びぬけた美人は自分の家に囲っておいて、毎
>晩色んな女のトコへ行ったりしました。
>そして関白に二条道平の妹も掠奪!子供まで産ませてしまい二条道平は「田舎者の武士
>にいいようにされてしまうとは!」と天下に赤恥じをさらしたのです。さらに後醍醐天
>皇の外戚で絶世の美女といわれていた早田宮の娘に目をつけました。だけどこの娘には
>れっきとした塩谷高貞というダンナがいたのです。師直は何度もアタックするも、とう
>とうこの横恋慕は実りませんでした。…
塩冶高貞も羨ましいな。天皇のお手が付いた女性とは言え、早田宮真覚の娘は後醍醐天皇の
又従妹にあたる女性。「梅の花の香を桜の花色に移し、柳の枝に咲かせたような趣の女性」
だったと伝えられている。そんな女性と子どもを3人も作った。きっと毎晩気持ちいいセッ
クスしてたんだろなあ。もし、高師直の略奪愛が成功していたらどうなってたんだろうな。 高師直って 悪いヤツだったんですか?
なんで 有名なんでしたっけ?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10153609265
ベストアンサー以外の回答(から部分引用)
>悪評の代表例は特に好色面です。
>高師直は、出雲国と隠岐国の守護であった塩冶高貞の妻が美貌であると聞いた。
>(彼の妻は後醍醐天皇の寵姫の1人で皇室出身者の説もあるそうです。)
>そこであの日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者である吉田兼好に
>無理やり艶書(ラブレター)を代筆させて妻へ送ったが、妻はすげなく拒絶しました。
>すると高師直は、塩冶邸に忍び込み湯殿に入浴中の高貞夫人を覗き見する始末。
>挙句の果てに足利直義に讒訴して塩冶高貞を陥れ高貞夫人を手に入れようと画策。
>その為に、塩冶高貞は妻や一族と共に帰国しようとしたが、高師直が差し向けた山名
>時氏らに討ち取られてしまった。
>また、二条前関白の妹を身籠らせるといった様に
>いずれも殿上人や皇紀などの身分が高い者たちを対象としていたりしました。
>高師直の高家は、家柄が足利家の家来の身分にしか過ぎません。
>それが天皇家や公家といった高貴な身分の女性に手をつけるという、
>身分制度社会においては恐れ多いことを平気で実行してしまう行動力
>を持ち合わせていた訳です。
>ちなみに、もちろん高師直が色男であったからでは無く、
>足利政権内の実力者としての権力で無理矢理関係を強要していたわけですから、
>そりゃ悪評が立とうというものです。 霊元天皇は江戸幕府にも引かぬ!媚びぬ!省みぬ!
知られざる江戸期の天皇
(1654〜1732 在位1663〜87)
https://bushoojapan.com/tomorrow/2015/08/06/56264
後水尾天皇(既に法皇となっていた)(1596〜1680 在位1611〜29)の第19皇子。諱は識仁(さとひと)。
母は内大臣園基音(もとなり)の娘国子(新広義門院)(1624〜1677)。諡号は欠史八代とされる孝霊天皇
と孝元天皇から「霊」と「元」を取ったものである。近衛基煕の正室の常子内親王は同母姉に当たるが、
天皇は朝廷と幕府の間に波風を立てるべきでないと諫める基煕とは長年にわたって対立した。父の後水尾院は
紫衣事件など徳川幕府の無礼な行為に立腹し徳川和子(東福門院)が産んだ明正天皇(女帝)に譲位した。
この時まで生まれた三人の皇子たちは全て夭逝していたが、譲位した後の上皇は後宮の女性たちに次々と手をつけ、
まだ天皇の位にいた23歳の年に四辻与津子に産ませた賀茂宮から62歳の年に園国子に産ませた永享女王に至るまで
19皇子17皇女を儲けた。そのうち紹仁(後光明)、良仁(後西)、識仁(霊元)の三人の皇子が天皇に即位した。
霊元の母の国子は17歳から34歳まで4男2女を、後光明の母の光子(壬生院。国子の叔母)は32歳から40歳まで2男3女を、
後西の母の櫛笥隆子(逢春門院)に至っては28歳から44歳まで6男4女も子どもを産んだが、明正の母の和子は17歳が初産
で27歳に菊宮を産んだのを最後に子どもを産まなくなったので、後水尾はおそらく天皇の外祖父になりたい徳川秀忠から
和子と無理やり子どもを作るよう強いられており、光子や隆子が当時にしては晩産なのは幕府の圧力で天皇から遠ざけられ
ていたか、彼女たちが身籠った子どもの何人かは堕胎させられて天皇の子どものうちに入っていないというではないかとすら
思いたくなる。う〜む、秀忠はやっぱり隆慶一郎や原哲夫が「影武者徳川家康」で描いているような陰湿な人間だったのか。
後光明と霊元の二天皇の外戚の地位を得たことで、羽林家の一つだった園家は宮中に隠然たる力を持つようになった。
近代では園基祥の娘、祥子が明治天皇に典侍として仕え2男6女を産んでいる。また、同じく羽林家の櫛笥家も隆致(たかちか)
が後西天皇の外祖父になっただけでなく、曽孫の賀子(よしこ。新崇賢門院)が中御門天皇と閑院宮直仁親王を産んだため、
中御門天皇から今上天皇に至る天皇全員が櫛笥家の血を引くことになった。 とまあ、お父さんの後水尾天皇の女性関係は置いといて霊元天皇も父に負けず劣らず早熟で艶福家だった。
22歳の年に次代の東山天皇を儲ける前に、16歳の時に近衛家煕(基煕の息子)の正妻である憲子内親王を儲け、
20歳の時に鷹司教平の娘で中宮の房子(新上西門院)に二条綱平の正妻である栄子内親王を産ませたため、
34歳の年に近衛家久が、36歳の年に二条忠吉という外孫が生れていた。百年ほど後の後桜町天皇は霊元の
男系の玄孫であるが、忠吉の外孫でもあるから女系を通っても玄孫になる。またただでさえ皇族摂家の主である
家久の孫娘の維子もやはり霊元の玄孫であるが、後桃園天皇の女御になり欣子内親王(新清和院)を産んだ。
なお、後桜町天皇の祖母の近衛尚子(新中和門院)は家久の異母妹なので、後桜町天皇や後桃園天皇の父桃園
天皇には憲子内親王の血は流れていない。桃園天皇は後桜町天皇と腹違いで二条忠吉の血が流れていない。
この辺りはちょっと複雑である。欣子内親王は傍系から迎えた光格天皇との間に温仁(ますひと)、悦仁の二子
を儲けるが、二人とも夭逝したため中御門天皇の血筋は絶えてしまった。いくら濃い血を保つ皇室の伝統だと
言ってもこのような何世代にもわたる近親婚で皇位継承者を残すのは困難であろう。 ところで、霊元は在位24年で東山天皇に譲位した後、孫の中御門天皇の代まで院政を行った
(しかし、成人した東山天皇は上皇の専横を嫌い、幕府との関係改善に努めた)。霊元が下御霊
神社に奉納した呪詛の願文で「私曲邪佞の悪臣」と記したのは近衛基煕のこととも両者の孫に当たる
家久のこととも言われている。綱吉の時代は天皇と幕府の両方から干されていた基煕が第6代将軍家宣
の岳父と中御門天皇の女御の祖父を兼ねることになって権勢を得たことによる近衛家3代に渡る朝廷独
占は中御門天皇の側近、他の摂家から非難を受けることが多かった。1713年(正徳3)に出家して記録
に残る最後の法皇となり、1732年(享保17)に79歳で亡くなった。60歳を過ぎても法皇の性欲は衰えず
艶福家でこれほどに年が離れた孫娘のような女性たちに皇子、皇女を産ませた。水戸藩主の徳川斉昭に
嫁いで江戸幕府最後の将軍である慶喜を産んだ吉子女王は有栖川職仁親王の孫娘である。ところで秦仲
子が子どもを産んだ年齢は間違っているんじゃないのか?数え年9歳の女が子どもを産むか??
Wikipediaより 法皇が晩年寵愛した女性とその子女
後宮:安倍氏(中将局)(1691-1753) - 倉橋泰貞女
第十五皇子:峯宮(1710-1713)
後宮:秦(松室)敦子(右衛門佐局)(?-1746) - 松室重敦女、岩倉乗具猶子
第十六皇子:有栖川宮職仁親王(第五代)(1713-1769)
第十三皇女:吉子内親王(1714-1758) - 徳川家継と婚約
第十八皇子:尭恭法親王(1717-1764) - 天台座主
後宮:秦氏(少将局)(1702-1728) - 南相忠女
第十四皇女:八重宮(1721-1723)
後宮:秦(松室)仲子(少納言局)(1707-1751) - 松室重仲女、愛宕通晴猶子
第十七皇子:尊胤法親王(1715-1740) - 知恩院門跡 あ、失礼。人名間違えた。
二条忠吉じゃなくて二条吉忠 歴史スレになってるな。俺は真子佳子姉妹丼政略結婚妄想で抜いてるだけだが。 これまたとんでもない情報(真偽は不明)を入手
桓武王朝の血筋は堀河天皇の代で途絶えていた
正史では鳥羽天皇は堀河天皇と大納言藤原実季の娘、藤原苡子
(権大納言藤原公実の同母妹で堀河天皇の父、白河法皇の従妹にあたる)
との間に生れたとされるが実は鳥羽天皇の実の父親は藤原公実で、母親は
その側室で堀河・鳥羽両天皇の乳母、藤原光子であり、鳥羽天皇と待賢門院璋子
との間に障害を抱えた皇子が多く生れたのは 実はこの二人の夫婦が実の姉弟だった
からである(いとこぐらい離れた結婚ではそれは起こりえない)とサイト主は主張
http://seiwagenjisinjitury3.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-3ae2.html 藤原道長の祖父にあたる藤原師輔(908〜960)という公卿・歌人は、自分の娘の安子を
村上天皇の後宮に入れ、冷泉・円融両天皇の外祖父になり、後三条天皇が即位するまで
師輔の息子や孫を外祖父とする天皇が連続して即位し続けたことは少し歴史を勉強した
方ならご存知だろう。白河上皇の院政期でさえ、堀河天皇を除く白河、堀河、鳥羽、崇徳
の4天皇は師輔の末子藤原公季の血を引く人物を外祖父に持つ。後白河天皇も崇徳天皇の
同母弟である。そして、この藤原師輔自身、臣下の身で醍醐天皇の皇女で朱雀・村上両
天皇(両天皇は師輔の叔母藤原穏子の所生であり、師輔とは従兄弟の関係になる)の姉
に当たる女性を三人も妻に迎えた。930年(延長8)、23歳の師輔には既に正室で年上の
可能性もある藤原盛子との間に伊尹、兼通、安子、兼家と4人も子どもがいたが、醍醐
天皇の皇女で4歳年上の勤子内親王(904〜938)と肉体関係を持ち、臣下の身で初めて
皇女を降嫁された。
この後、平将門と藤原純友が乱を起こした承平・天慶年間(931〜947)に累進して参議
を経て、権中納言になった。病弱で子宝に恵まれない朱雀天皇が弟の村上天皇に譲位し、
父の関白藤原忠平が死に村上天皇が親政を始めると、師輔は右大臣として天皇の朝政を
支えた。出世では兄藤原実頼が常に先を行くが、天皇と姻戚関係を持たない実頼よりも
師輔のほうが事実上朝廷の実権を握っていた。朱雀天皇の時代、平将門が乱を起こした
とき藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、忠文が交戦する前に乱は鎮圧された。この
時、実頼は「忠文には功がないのだから賞すべきではない」と主張したが、師輔は「罪
の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出
立したのだから、賞すべきである」と論じ、世論も師輔の発言に賛同したことは有名で
ある。村上天皇の下で彼らが行った政治を天暦の治という。 さて、師輔が皇室から迎えた勤子内親王は子供を残さないまま35歳で亡くなった。
この後師輔は彼女の同母妹の雅子内親王(910〜954)を正室に迎え、彼女との間に
高光、為光、尋禅、愛宮(左大臣源高明の継室で、藤原道長の継室源明子の母)の
3男1女を儲けた。雅子内親王が亡くなると、彼女の異母妹の康子内親王(919〜957)
を正室に迎えた。彼女は皇太后藤原穏子が産んだ皇女で村上天皇の同母姉で師輔とは
従兄妹の関係にあった。彼女は師輔と結婚したとき既に36歳だった。彼女は母を亡く
して身辺が寂しくなったとき、丁度妻を亡くした師輔と正式な婚儀を経る前に懇ろに
なったそうであり、「大鏡」によると、藤原実頼からその節操のなさを弟の天皇の前で
暴露された話が紹介されている。実頼は好色な弟と対照的に堅物であったとされる。
実頼は藤原時平の娘を妻に迎えていたので、実頼の血統が栄えなかったのは菅原道真
の祟りによるものかもしれない。
彼女は955年(天暦9)に師輔の十一男の深覚を、956年(天暦10)に師輔の十二男の
公季を産んだが、高齢出産がこたえたのか公季を産んでまもなく亡くなった。師輔も
数年後960年(天徳4)に53歳で亡くなった。幼い公季は29歳年上の異母姉の皇后安子に
引き取られ、村上天皇の子どもたちと一緒に育てられた。三人の内親王と密通し彼女ら
全員を妻にしたことから、師輔を『うつほ物語』の主人公の1人で「限りなき色好み」
の右大将藤原兼雅のモデルとする説もある。『中外抄』(藤原忠実の語録)は、
摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という
記述がある。師輔自身は摂政・関白になれなかったが、村上天皇が亡くなって後、安子が
産んだ憲平親王が冷泉天皇に、守平親王が円融天皇に即位し、外戚としての関係を強化した
ことが後に師輔の家系の全盛に繋がり、長男・伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と
実に五人の息子が太政大臣に昇進し、子供達の代で摂関家嫡流を手にする事となった。
さて、現代に皇室の女性を3人も妻に迎え、さらに一族の女性を皇室に入れることが
できる勇者はいるだろうか。
ナゾの男「眞子さまだけでなく、佳子さまも愛子さまもみんな俺の妻になる
かもしれないぜ」 ✕ 白河上皇の院政期でさえ、堀河天皇を除く白河、堀河、鳥羽、崇徳 の4天皇は…
〇 白河上皇の院政期でさえ、堀河天皇を除く白河、鳥羽、崇徳 の3天皇は…
また間違ったorz。 眞子ちゃんはKKとやりまくってたんだろ?
皇族も人間だなあ
一番かわいい佳子さまは処女なんだろうな
性的快感知らんだろあの子 キリスト教系の大学に通ったお二人が婚前交渉などなさるはずがない!
眞子様はきっと結婚するまで純潔を守っているし、小室さんもお姫様
に指一本触れるなどとんでもないと思っているかもしれない!
世間の偏見は酷すぎる! マジレスすると、スレタイが、不敬だと思う
皇族に対して、「ヤツら」とかって言うのマズイだろ
それに佳子さまなんかは、セックスする自由もチャンスもないんだから
オナニーする権利くらいはあるだろし 少なくとも女子皇族は自慰行為は禁じられてると思うけどな
男子はどうなんだろう >>80
女子のオナーニを禁じる家庭は多い、はず
ママンは自分でオナーニするが娘にはさせないようにするのだろう
一度でもしてしまうとオナーニはずっとするようになってしまう
女のオナーニもすごいらしいですからね >>79>>81
皇族での「で」の意味を「をオカズに使って」ととるか
「であって」「で、なおかつ」ととるかでスレタイが
全然違う意味になるw
それに全く気付いていなかったここの住民w 女性のオナニー禁止、とか童貞の発想だな
スレタイの本意は
「皇族で(佳子さまのオナニー姿を想像して)オナニーする奴らってさ(童貞だけだろ)」
ていう意味だな 男子はエロ情報から隔離すれば夢精以外での精通は相当遅れるとは思うけどな
女子はシャワーとかで勝手に覚えることもあるみたいだし、そう単純ではないのかも だから、そういうのが童貞の発想w
シャワー中に、自然にオナニーを覚えた佳子さま、とか
そういう姿を想像して、興奮してオナニーする奴らって、童貞だけだろ
普通の女ならみんなヤってるって ネタスレにマジレスすんなよw
そもそも佳子なんかより眞子とKKのメチャックスの方がよほど興奮するわ ピュッピュッ!! 私は童貞ですが、いま生きてる皇族の女性がたをオカズにオナニーする
などあまりに不謹慎だと思っていますので、平家を滅ぼした源義経が
安徳天皇の母の建礼門院を口説き落としたり、昔の天皇が叔父や叔母、
姪、いとこやいとこの親とセックスしたり、高師直が公家の姫君たち
に次と手を出して孕ませ、ついには塩冶高貞の妻で皇室出身者の女性
と言われる女性が入浴するところを覗き見したりする歴史上の一コマを
妄想してオナニーしております。称徳天皇と道鏡のカラミは、称徳天皇
があと十何歳か若ければオカズにできたと思います >>88 訂正
(四行目)いとこの親と → 親のいとこ、あるいはいとこの娘とかと シャワー室の佳子さまの姿とか
目を瞑った佳子さまがシャワーヘッドを股間に向けて快感を堪能してる様子とか
シャワー室にマッサージャーを持ち込むようになってるとか
そういう想像は不敬だと思う
88みたいなのは良いと思う
分かんないけど そもそも皇族はシャワーなんて危険なものは使わない
湯浴み、ってやつで、菊の御紋の入った桐製の桶でサラ、サララ、って優雅にお湯を掛けながら身を清めるのだ
イギリス留学中とかは知らんw 4Mr.名無しさん2019/05/17(金) 00:31:06.65
分かっとらんな。神武天皇は戦争して天下人になったんだよ。
皇軍は義軍だったという美談は大嘘で、戦争する軍隊の楽しみ
は古今東西略奪に強姦だよ。神武天皇の時代から従軍慰安婦が
いたに決まっとる
5Mr.名無しさん2019/05/17(金) 00:36:08.63
治承・永寿の乱でも、源氏の軍は平家方の武将の妻や娘、
公家の女を追っかけまわして強姦した。源氏の田舎侍には
雅で高貴な都の女たちは永遠の憧れだったのだ。
6Mr.名無しさん2019/05/17(金) 02:15:46.59
神武天皇の故郷は鹿児島だという説もある
鹿児島にはおっとい嫁じょと言って攫った女性を
嫁にする風習があった。もしかしたら二、三千年前
からあったかもしれない。きっと朝鮮から来た天孫
ニニギが鹿児島の女性を誘拐婚してできたひ孫が神武だよ >>91
体の表面をこすらないと垢が落ちないだろ。
湯浴みなんかで大丈夫なのか? 【歴史】東西すごい人セックス伝 娘を平城天皇へ嫁がせた藤原薬子
女官として宮中に入り淫乱ぶり発揮!娘婿と密通し寝取る[07/02] [無断転載禁止]©bbspink.com
http://phoebe.bbspink.com/test/read.cgi/pinkplus/1562000809/
皇族オナニーネタで藤原薬子についても詳しく書きたかったが先を越された。 文徳天皇に入内し清和源氏の祖となる清和天皇を産んだ
藤原明子(染殿后)を扱った漫画が不敬すぎるw
俺もこんな色っぽい体つきの貴族のお姫さまとイイコトしたいよ
清和天皇の在位期間中天災が絶えなかった理由ってまさか…ね
クリックしたら読めるよ
https://www.alphapolis.co.jp/manga/922367560/671153065 昔、小学生時代の紀宮様の運動会ブルマー姿画像でオナニーしたことあります♪ 記紀が記す安康天皇と雄略天皇は変態兄弟ですな
安康天皇は兄の木梨軽皇子を妹との近親相姦を理由に自殺に追いやって
即位しておいて、自分は叔父である大草香皇子の妻の中磯皇女を皇后に
なさったが、この中磯皇女は履中天皇の皇女、つまり安康天皇の従姉妹
(年上?)という説と安康天皇の同母姉という説があって、このお后は
お姉ちゃん説が本当なら人間として外道としか言いようがない。古事記には
7歳の眉輪王に殺されたとき56歳だったと記されているが、天皇の事績から
推察すると実年齢は20代半ばだと思われる。従って父允恭天皇も崩御時78歳
にはなっていなかったはずであり、実在したことが確実であろう5世紀の大王
の年齢は修正の必要があると言ってよい
雄略天皇に至っては童女君という名前からして幼いと思われる采女を
一晩に七回も犯しておいて一晩で妊娠したから生まれた皇女は俺の子どもか
疑わしいとか仰るわ、随分年が離れていると考えられる自分の叔母である
草香幡梭姫皇女(草香幡梭姫皇女が雄略天皇の祖父仁徳天皇の末娘である
としても、雄略天皇は仁徳天皇の四男の允恭天皇の五男で、
雄略天皇が誕生したときには仁徳天皇は故人であった可能性が高い)
を皇后にお迎えなさるわ、「俺の女房の稚媛は美人だ」と自慢した家臣の
吉備上道臣田狭を任那に左遷して稚媛を自分の後宮に入れて皇子を二人も
お産ませなさるわ(人妻とのまぐわいは気持ちよかですか?)、大王の地位
にある特権を利用してやることホンマ鬼畜ですわ >>98訂正
しかし門天皇は紫式部の雲孫…
↓
しかし土御門天皇は紫式部の雲孫… >>95
この漫画は史実ではない作り話ですのであしからずですと?
いやいや清和天皇はきっと藤原明子が産んだ文徳天皇の皇子
ではなく葛城上人と藤原明子の不義の子でしょう
清和天皇の子孫から源頼朝や足利尊氏、徳川家康が現われて
皇室・公家から権力を奪っていき武家政権が完成したことから
考えても清和天皇の出生が皇室にとって呪わしいものであったに
違いないのでは?
足利尊氏の孫の義満は自分の権力に酔いしれて北朝の天皇の后や
宮様の奥方に手を出して北朝を乗っ取ってしまったそうだ
そして足利氏の皇統も幕末に孝明天皇の暗殺によって途絶え、
薩長勢力が擁立するそれまでの天皇とは何の縁もない大室寅之助
あるいは箕作奎吾が明治天皇として即位しその血統が現在まで続いているそうな
と思ったら明治天皇の血統と大隈重信の子である大正天皇の血統から交互に天皇が
即位しているという説もあってこの部分はどう整理していいのか分からない
現皇室は神武天皇の血筋に戻っていたんだよというならごめんなさい 最近ピクシブとかで十二単に身を包んだ見目麗しい公家の姫様の
二次元画像を崇めることが可能になった。皇室の女性をオカズにするのは
さすがに畏れ多い。ランクを下げて公家の姫様でいいよ。小室君がやってる
ことは怖くて真似出来ない。彼は本当に男の中の男だよな。
公家の姫様だって女神の化身みたいな存在なんでしょ。
天皇陛下が昔京都にお住まいだった時代は、宦官制度がない代わりに、
宮仕えする女房たちが、天皇に寵愛される中宮や女御を、男に汚されないよう、
彼女たちの肉体で護衛していたのではないだろうか。
俺みたいな塵芥に等しいカス庶民は高貴な姫さまたちと、三次元でなく
二次元でいいから、十二単を乱れさせてまぐわいさせていただけたら
本当思い残すことはないね。 ランキング(回数(概数))
1. キ○さま 15回
2. カ○さま 7回
3. マ○さま 4回
4. ツグ○さま 3回
5. ミチ○さま 2回
6. マサ○さま 1回
-. アイ○さま 0回 そういえば、キ○さまは15回中10回以上は皇族になる前だったから、
皇族として御ナッタNo.1はカ○さまだな。 トータル射精量(脳内中出し達成分)は何ガロンですか? 愛子様と言えば
【あいこ】あいちゃんでオナニー【あいみ】
http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/onatech/1629817630/ 主題歌
アイアイ(アイアイ) アイアイ(アイアイ)
オカズさんだよ
アイアイ(アイアイ) アイアイ(アイアイ)
みんなで語ろう
アイアイ(アイアイ) アイアイ(アイアイ)
チンポもう硬い
アイアイ(アイアイ) アイアイ(アイアイ)
オカズさんだね KKの凸とKMの凹は相性がよさそう。
お義母さまも含めて性格がそっくりだからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています