泉鏡花「外科室」

 謂う時疾(はや)く、その手はすでに病者の胸を掻(か)き開けたり。
夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
 かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
 ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言答(いら)えたる、夫人が蒼白なる両の頬(ほお)に刷(は)けるがごとき紅を潮しつ。
高峰は左手に婦人の一の乳首を扱いて膨らませ、摘み上げるや、右手のメスにて鋸引きぬ。
切り口より熱き血潮が噴き出ずる。
婦人はじっと高峰を見詰めたるまま、乳首に喰い込むナイフにも眼(まなこ)を塞がんとはなさざりき。
乳首の大半が切れた所にて高峰はナイフを止め、左手をぐいとばかり引き上げぬ。
婦人の上体が起きかけたる時、伸びきった乳首の皮がピシ!の音と共に千切られぬ。
と見れば雪の寒紅梅、血汐は乳頭よりつと流れて、さと白衣(びゃくえ)を染むる。
夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白(あおじろ)くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
そのとき既に、高峰の左手は、婦人のもう一つの乳首を摘みぬ。
やはりメスにて鋸引かれ、終に千切られぬ。
婦人はやはり自若として、足の指をも動かさざりき。
 ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎(だっと)のごとく神速にしていささか間(かん)なく、伯爵夫人の乳首を割(さ)くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言(ことば)を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
 かく言い懸(か)けて伯爵夫人は、がっくりと仰向(あおむ)きつつ、凄冷極まりなき最後の眼(まなこ)に、国手(こくしゅ)をじっと瞻(みまも)りて、
「でも、あなたは、あなたは、私(わたくし)を知りますまい!」
 謂うとき晩(おそ)し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。
医学士は真蒼(まっさお)になりて戦(おのの)きつつ、
「忘れません」
婦人は、愛する高峰に両乳首を引き裂かれて死ねることをば、極上の悦びと感じたり。