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(1)【自分が囚われている判断基準を疑いなさい】

「協調性がある」という長所は、「主体性が無い」という短所で言い換えられます。

「ストレス耐性が強い」という長所は、「頑固」という短所で言い換えられます。

このように、人のとらえ方によって、同じ対象を見ていても印象が変わってしまいます。
でも畢竟、「慎重派」という好意的評価も「消極的」という悪評価も、同じことを言っているに過ぎません。

この件で、T.Eロレンスの葬儀のエピソードを思い出しました。
新聞記者が、葬儀に参列した彼と親交の深かった知識人達に、その人となりについて尋ねました。

ある者は「彼は類い稀なカリスマ性を持った指導者だった」と評しました。

しかある者は「恥知らずな自己顕示欲の塊のような男だった」と評しました。

ロレンスに好意的な評価をする者には「カリスマ性」と映るものが、
ロレンスを嫌う者には「軽薄な自己宣伝家」と見えてしまうわけです。
しかしいずれも「行動的な冒険家」だという部分を見ていることに変わりはないのです。

要は、客体に対し悪意があるか善意があるかという主体側のとらえ方の問題であり、
全く客体の問題ではないということです。
全ては主体側の偏見と妄想によって作られた幻影に過ぎないということなのです。

大島丈は野に咲く一輪の花であり、それ以上でも以下でもありません。
たとえ誰に褒められなくとも、誰に貶されようとも、彼は神から与えられた任務を粛々淡々と遂行しているに過ぎません。
誰に見られなくとも、彼は美しく咲き続けるのです。
ただひたすらに美々しく花を咲かせることが彼の使命なのですから、それは呼吸をするのと同じ位に当たり前の行為なのであり、
そこに浅ましい顕示欲や承認欲求など存在しません。

その大島丈というお花に対し、我々は勝手なバイアスをかけてエゴイスティックな幻覚を作り出しているに過ぎません。