狂気の心理学は本質的なものへと歩む。
なぜなら、自己の様々な可能性が互いに結びつく所へ、
それは漠然と向かっているからだ。
つまり、それは自己の流れを遡り、人間が自己と関係を持ち、
自己を心理学的人間たらしめる、
かの疎外の形を作り出す領域に向かって歩いている
人口概念とその調整を確保しうる機構とを関心の中心に置くようになる政治的な知の生成。
ここで問題となっているのは領土国家の代りに人口国家が置かれたということではなく、
力点が移動し、新たな目標が登場したということ、つまり新たな問題と技術が登場したということだ。
私たちが階級独裁、階級権力の独裁体制のもとに生きていることもまた明白ですが、
この独裁体制は、この暴力の諸手段が制度的で合憲的なものであるときでも、
それでも暴力によって課されるものなのです。そうなると私たちにとっては
民主主義の問題などないわけです
ルソーは『告白』冒頭で「自己が今の自己になるのは時間の中でである」という
先見の明ある認識を力説した。彼が自分自身の成長に力点を置いていることは
マテシス・空間配置に基盤を持つ啓蒙時代のエピステメーから
十九・二十世紀初期のそれの構成原理たる時間性と因果性へと至る転換の鍵となる要素だ。
臨床診断〉中心の諸科学を示す略号で整理してもいいような事態の、
ほぼ十八世紀末における出現といった些細な歴史上の問題がある。
たとえば知の分野の中への個人の登場の問題、学問的言説の一般的な
運用の中への個別的記述や尋問調書や病歴口述書や〈一件書類〉等の登場の問題だ。
系譜学において起こっているのはまさに知の反乱です。
それは科学の内容、方法或いは概念に対する反乱というよりは
先ず何よりも、中心化しようとする権力作用、
私たちの社会の内部で組織される科学的言説の制度と
機能につきものの中心化する権力作用に対する反乱です。
生権力の過剰が生じるのは、生命を調節するばかりか、
生命を繁茂させ、生物を製造し、怪物を製造し、
究極には管理不可能で普遍的破壊力を持つウィルスを製造することが
技術的にも政治的にも人間にとって可能になる時です。
その時生権力は人間的な主権からはみ出してしまうでしょう。
自分達が絶えず発明し続けるあれら未聞の形象の内に出発・喪失・回帰といった古い神話、
またそれらと相関的な、〈他者〉になる〈同一者〉と根底では〈同一者〉だった〈他者〉という神話、
無限に伸びる直線でいながら同一の円環であることの神話を再発見
>>950
コラは全部べらぼうに作って貰ってるんだ。実は俺は作った事が一度もねーんだよ。
棒っキレに尋ねてみろやw 分かったら俺にも教えろ!いいな!これは命令だ! 比の人達の難船、彼らの救われた不可思議な装置や能力の全て、
祭の間に彼らが行うそれらの実演等は、カントレルの〈庭園〉の
孤独が尚一層強調することになるあの本質的無償性を象徴している。
これら未知の装置全ては、見世物としての反復と、同一物の回帰との
内にしか未来を持たない。
意図的な死によって、言語にとって内的な次元、即ち言語自身による言語の死刑執行、
そして自分の屍骸の粉々にされた光輝から出発しての甦りという次元を開きつつ、
毎日の言語の中の死ということの突然の空虚こそ、そして直ちに起こる星々の誕生こそ、
詩というものの距離を定義している。
かつて人間は〈存在〉との関係での〈無縁な者〉
―虚無と幻想とに生きる、愚カナル人間(非存在の空虚とこの空虚の逆説的な顕現)
だったが、今や人間は彼自身の真理の中に引き止められ、その事によってもその真理から遠ざかる、
自己との関係での〈無縁な者〉即ち疎外[=錯乱]者なのだ。
貧乏人〉とは、曖昧な概念、そこでは〈人間〉ということの豊富さと、
人類に本質的として認められる〈欠乏〉状態とが混ざりあっていた概念であった。
実際、〈貧乏〉と〈人口〉の間には、厳密に逆の関係が存在している。
理性が非理性から、狂気としての過ちとしての、或いは病気としての真理を引き出すために、
非理性に対して行使する統御は、理性と非理性との間の距離を打ち立てる区切りから
派生するものなのである。従ってこの原初の論争を、勝利も、勝利への権利をも
予想することなく語るべきなのだ。
構成的であるのは、狂気は分割する身振りの方であって、
その分割が一度成立し、戻った平穏の中で築かれる、科学の方ではない。
起源を為すのは、理性と非理性との間の距離を打ち立てる区切りである。
生命の認識は、真理や主体や認識の一般問題に依存する領域の一つにすぎぬと考えるべきか。
それともこの問題を別の仕方で提起するのを強いるものなのか。
認識は世界の真理に開かれているのではなく生命の「誤り」に根付いているとすれば、
主体の理論は新たに表現されねばならない。
自分の外部の何ものをも享受しない。自分と自分自身の存在以外の何ものをも享受しない。
その状態が続く限り、人は神のように自己充足する。
人々が理性に対して問いかけることができるのは、非理性の奥底そのものからである。
そして、現実的なものの存在と非存在とを、真実に等価な一つの幻想の中で
一つにまとめる妄想の眩暈によって、世界の本質を捉え直す可能性が開かれているのである。
〈規格的なもの〉は標準化された教育の創設と師範学校の設立に伴って
教育の場に強制権の原則として確立される。
またそれは健康の一般的な規格を権能させる性質を持つ、
国家的規模の医療団体及び救護施療上の規制を組織化するための努力の中でも、
産業界の生産方式並びに製品の調整の中でも確立される。
二元論とグノーシスとは、頻繁な拒否と断罪にも関わらず、
実際にはキリスト教における〈悪〉の概念に濃い影を投げかけてきた。
その二極的思考(神とサタン、光と闇、善と重さの霊等、大いなる闘争、
根源的で執念深いある種の悪意)は、我々の思考にとって
無秩序の秩序というものを組織してきた。
私は、構造主義に対して距離を取りつつ構造主義をなぞって二重化するような関係をもっている。
距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語るからであり、
なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからだ。
己から出発して表明され得るような人間の本質、
また、可能な認識すべての基礎であると同時に
認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような
人間の本質を規定しようと試みる、
その時から、人は誤謬推理の只中にいるのです
研究の合理性、科学性、そして客観性が、研究の選択それ自体にしか根拠のないものである以上、
研究の有効性の実際の保証は非心理学的な方法と概念とに求められる以外ない。
啓蒙とは一つの時代であり、それも自らを指し示し、自分自身の標語や掟を自ら定め、
思考や理性や知の一般紙との関連において、また自らの現在や認識、知、無知や
錯覚の様々な携帯との関連において、諸々の制度などの為に自分が何を為すべきかを言う、
そうした時代だったのです。
現出面としての哲学、哲学者自身が属す現在性が持つ哲学的意味への問いかけとしての哲学、
そして哲学者自身がその一部をなし、それに対する関係によって自らを位置づけねばならない
「我々」というものへの哲学者自身による問いかけとしての哲学。
これが現代性の言説としての哲学を特徴づけるものです。
人間学の対象領域を一層拡張する為によその土地に何を期待すべきかを知っておきたいなら
仲間との交際を通して事前に故郷で人間知をものにしておかねばならぬ。
こうした旅の見取り図なしにはこれからの世界市民は世界市民に相応しい
人間学を築く上でいつまでも狭い視野から抜け出せぬ。
革命が再び起こるべきだが未だ起こらないという、現在のような歴史の側面において、
余分なものとしての我々とは、一体何なのでしょうか。
近代に思考の全体は政治の全体がそうであるのと同様、革命という問題によって支配されています。
論争家にとってゲームは、相手を発言する権利を持った主体として認めるということではなく、
可能な対話の相手としては否定しさることにあり、その最終目標は、
困難な真理に出来る限り近づくことではなく、彼が最初から振りかざしている正義に勝利させることです。
内感は純粋統覚、つまり人間が何をしているかの意識ではない。
というのも後者の意識が思考能力に属するのに対して、
内感は人間が自分自身の思考の戯れによって触発されている限りで
感じ取っていることの意識だからだ。
知性が感性が対立するからといって、両者の同一性を際立たせる為にベックが
経験するものdas Erfahrendeと呼ぶものの統一が脅かされることはない。
考える存在としての私は、感じる存在としての私と一つにして同じ主観である
想像力の中心に夢の意味作用を結びつけることで、実存の基本的諸形式を復原し、
実存の自由を明らかにし、実存の幸不幸を見定めることもできるだろう。
「性が抑圧されている」という考え方に基づく言説は、「抑圧されているという言表」と
「未来が予告されているという形式」が互いに照らし合い、相互に強化しあうことでその全体を形づくっている。
このエコノミー全体・言説的全体に対抗することが、現在の根源的な問題なのだ。
[私たちを分け隔てている]深淵は深く、私にはこれを除き去る方法がない。
しかし私たちは誰でも、この深淵に眩暈を感じることができるのだ。
それは私たちを魅惑することもある。この深淵は、ある意味死であり、
死は眩暈を起こさせ、魅惑するのである。
推論は自己固有の価値を否定しつつも、
推論をなす者のみならず推論に耳傾けるものをも想定するということだ。
私は自分の中に、この私などを超えたもの、私の同類者の特性を成すもの以外には
何一つとして見つけることはできない。
血で膨れた器官の充溢、生命の非人格的な充溢が目に見える形を示していたに違いない、と私達は推測することができる。
動物の非連続的な個体としての存在が、動物の死を契機として、生命の器官の連続性に席を譲るのである。
[生殖活動における]非連続から連続への過程の中で、活を入れられるのは基本的な存在の全体なのだ。
暴力だけが、暴力と暴力に結びついた名づけがたい混乱だけが、このように全体に活を入れることができるのである!
かつての世界では、同じように、個人が理性のためにエロティシズムの充溢を断念するというようなことは無かった。
少なくとも一人の同類の人格において、一般的に眺められた人間性が全体の制限を免れることを願っていた。
非人称化の至高点においてこそ、誰かが名づけられ、自分の姓あるいは名を受け取り、
その人に属しかつその人が属するもろもろの<多>を瞬間的に把握して、最高の強度を孕んだ識別可能性を獲得する
幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。
それは過去の世界であり、未来の世界ではない。
過去にしがみついたまま前進すること、
それは囚人の足枷を引きずって歩くことである。」
いきた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。
欲望には対象が欠けている。したがって世界は、あらゆる対象を含んでいるのではなく、
少なくともひとつの対象を欠いている。それがつまり欲望の対象なのである。
したがって、欲望の鍵を所蔵する別の場所が存在する
この世界には、欲望の鍵が欠如している
器官なき身体はひとつの卵である。そこには、軸と閾、緯度、経度、測地線が縦横に走っている。
また生成と移行、そこに展開されるものの行き先を印づける勾配がいたるところにある。
精神分析は、一方において、今日では、精神病と呼ばれる諸現象がこの参照の枠組みをどれほど越えているか気づいていながら、
あいかわらず、オイディプス三角形という基盤から問題を提起しては、解釈を発展させているのだ。
あらゆる合理性の非合理を信ずるように、欲望そのものを信じているのだ。
欲望が、欠如、渇き、または憧れであるからではなく、欲望の生産であり、
生産する欲望であり、現実的欲望であり、またそれ自体現実的であるからだ。
神分析にとって治療するということは、無限の対話や無限の諦め、
また去勢による欲望の獲得を意味するからである
そしてまた、患者が独身、不能、オナニーでくたばるよりも、
むしろ患者自身が自分の子孫に病気を分散し移すことが
できるような条件を確立することであるからである。
分裂症は資本主義そのものの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点であるが、
資本主義は、この傾向を抑止し、この極限を拒絶し置き換えて、これを自分自身の内在的な
相対的極限に代えなければ機能しえない。
近親相姦は運動に似て、そもそも不可能なのだ。それが不可能であるのは、
現実界が不可能であるという意味ではない。
まったくその反対であり、まさに象徴界が不可能であるという意味である。
こうして女たちの身体には膣が釘づけにされ、男たちの間では巨大なペニスが共有され、
肛門のない身体に独立した肛門が割りあてられる。大食いの小咄は、こう始まる。
「口が死んでしまったとき、体の他の部分たちにたずねて、どの部分が埋葬を引きうけるか知ろうとした
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