>>169
(汐里が中に入ると、背後で扉が自然と閉まる)
(そして、それっきり、その扉は溶接されたかのように、微動だにしなくなる)
(まるで、『入ってきてすぐ帰るなんて、不粋なことはするまいね?』とでも言うかのように)

(彼女の挨拶に対し、返事の声はなかった)
(しかし、人の気配がまったくない、というわけでもない)
(ごくわずかにだが、『ひた……ひた……』と、誰がが歩くような物音や、電化製品のような『ブ――ン』という振動音が、どこかで鳴っているのだ)
(玄関から見た家の中は、ごく普通の現代的なインテリアで構成されていた)
(フローリングの床。白い壁紙。天井には蛍光灯。下駄箱の上には、大きな木彫りの熊が置いてある)
(しかし、壁の柱にかけてある時計だけは、壊れて止まっていた)

(もし、汐里がここで、壁をよく観察したならば……表に散乱していた紙と同じように、鉛筆で文字が書き込まれていることに気付くだろう)
(『きてくれた』『うれしい』『おさげがみ』『めがきれい』『かわいい子だ』などの言葉が、あちこちにある)
(明らかに、汐里の姿を認識している内容だ。そして、全体的に好意を示しているように見える)
(だが、問題はそれらの褒め言葉ではない)
(ひとつだけ、赤鉛筆で書かれている文章が、黒い普通の鉛筆書きの文章に混じっている)

(『なでてあげたい』)

(汐里が、この文章を見てしまったら。彼女は、実際に誰かにカラダを撫でられるような感触を味わうことになるだろう)
(じっとりと汗ばんだ、大きな手のひらが、汐里の胸やお尻を、その肉感を確かめるかのように、むにむにと揉むように撫で回してくる)
(しかも、その感触は、服の内側……素肌に、直に触られるような種類のものなのだ)
(目に見えない、幽霊のような何者かに、カラダを好き放題触られる。そんな感触が、数十秒間続くことになるだろう)
(もちろん、それはあくまで、赤鉛筆の文字を視認すれば、の話だが)