>>529
「どうしたのですか、弥四郎殿。そんなに大きな声を上げて」
母の前で声を荒げることなど滅多にない弥四郎の剣幕に、志乃は少し驚いた様子で炊事の手を止める。

火に掛けた鍋を竈の上から除けると、水仕事で濡れた手を丁寧に拭いながら弥四郎の方へ向き直った。

志乃は女性にしては上背があり、弥四郎が母と向かい合うとやや見上げるような恰好となる。
成長期の弥四郎もだいぶ背が伸びてきたが、それでもまだわずかに母には及ばなかった。

時に周囲から身の丈を揶揄されることもある志乃であったが、その美貌は誰しもが認めるものだった。

黒く艶やかに伸びた御髪、白く皺の目立たぬ滑らかな肌、長い睫毛が映える切れ長の目元に、しっとりと華開いた牡丹のごとく麗しき口元。
背の高さゆえ遠目には痩身に見えるが、胸元や尻回りを盛り上げる稜線は、慎ましく着こなされた着物の上からでも女としての肉体の豊かさを示している。
三十路を数えて薹が立つかといえば、岡元の御新造に関してはその佳さに些かの翳りも見られない。

そんな志乃を弥四郎は昔から大層慕って、幼い頃はいつも母にべったり。
母親に甘えるのに気恥ずかしさを覚える年頃になり、流石に距離を置いて接するようになったが、志乃を慕う弥四郎の心持ちは今も何ら変わりが無かった。