>>832
それは目を凝らさねば見落としてしまうような微かな光だった。
だが、零落した武家の貧しい家計事情では貴重な灯油を余計に買う余裕は無く、この屋敷で夜更けに明かりが灯っていることなど弥四郎は終ぞ見たことがなかった。

「・・・・・・っ・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・」

今時分は志乃が寝ているはずの部屋から、囁くような微かな女の声が確かに聞こえてくる。
細やかで誰のものとも判別がつかぬが、母の寝所から聞こえる以上、よもや部屋の主以外の声ではあるまい。

・・・・・・もしや母上は今、亀千代様の御指南をなさっておられるのか?
御伽女の務め。その現実味が急激に増して弥四郎の上に重く圧し掛かる。

「決して寝所に近寄ってはならない」
そんな母と交わした約束の言葉が脳裏を過ぎるが、弥四郎の心を妙にざわつかせる艶やかな女声は、その戒めを解き解し打ち消してゆく。

母上・・・・・・。

己が身を焼き焦がす灼炎に誘われた羽虫のように、ふらふらとした足取りで弥四郎はその灯りへ近づいて行った。