>>696

暁年が卍言いなりの妻を受け入れるという、煮え切った窯に身を浸す行為を行うには
唯子に対する相当な「執着」を必要とするはずだ。
変わってしまった唯子を見て、卍から取り返すのが不可能と判断して、卍の言いなりになる。
それはすなわち、唯子を卍から取り戻すのを諦めた事に他ならない。
そんな、「唯子を諦めた」状態で、「愛する唯子を取り戻したい」という「執着」以上の「執着」を唯子に保つことが可能なのだろうか?
あるのだとしたら、それは一体どんな理由なのだろう? 身を焼く程の地獄に踏み込むに足る決断とは果たして何なのだろうか?
「唯子と共にありたい」と思うその根幹には、まず「唯子を取り戻す」という「執着」がないと成立し得ない。
まさに矛盾と言えるだろう「唯子を諦めた」上で成り立つという「執着」がそれに取って代わることはできるのだろうか?
果たしてそんな「執着」が「執着」と言えるのだろうか?
そう考えると自分は無理って判断になる。 暁年は己の魂を救うために唯子を捨てるという結論に至るのではないかと・・・考えるんだよね。
でも、実際暁年は唯子を受け入れている状況を顧みれば、不本意とは言え彼女を受け入れる何らかの理由が暁年にあったことが推測される。
卍が唯子に課した条件、その対価が696氏のいう卍に抱いてもらう事(強いて推測するなら自分もそう思った)を指しているのなら
唯子は快楽の為なら、家族の傷つけ貶める事を最早厭わない最低最悪の女になっていることは否定できない。
己の魂を救いつつ、自分を傷つけ続ける唯子を受け入れるにはどんな理由があるのだろうか?
強いてその理由を推測するなら、暁年は唯子を取り戻す何らかの算段ないし条件があって、面従腹背をもって一時的に卍に従ってるとしか思えない。
なんの算段もなく只々己の妻を好きにイジラレまくる生活を甘受するには、暁年は己の精神を殺す以外にあり得ないからだ。
だが、新たな情報を付与することでしか成り立たない状況判断は妄想の域を出ない。
これ以上は、作者の山文氏のみぞ知るといったことだから、今のところ自分の考察はここで終わってしまいましたね。
タイトルにある「月下香の檻」の意味成す「檻」・・・全くもって悩まされる言葉ではありますが、やはり「謎」を解消するにはまだ自分には難しいようです。