さて、今回の話だけれども
前回の話との明らかな矛盾点がある
バャハーンギール=アーガー・ピールハンマド政権が三師団宛行状を受諾したのが
帝国歴一〇八〇年三月二十四日であるという衰亡記の記述だ
実際には二十二日に受諾が決定され、調印が行われたのが二十三日

これは一体なにを意味するのか
カゲシン政権側がいろいろあがいた結果、1日遅く受諾したということにすることに成功した?
そして後世には二十四日受諾と伝わっている…
ということなのか