第三に、「女性の集団的な人権」という概念を認め、「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする表現の自由の制約を認めることは、
非常に安易な「表現狩り」につながりかねず、却って問題の所在を不明確にする危険性が強いと言えます。
差別を論じるためには、差別的な表現を避けて通ることは出来ないことは言うまでもありません。
第四に、表現の自由に対する法的な制約の根拠となりうる「集団的な人権」という概念を認めてしまうと、「集団的な人権」の対象となる集団が際限なく広がってしまいます。
例えば、「イスラム教徒」の「集団的な人権」を守るために、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺等をする表現を規制したり、
あるいは、「ユダヤ人」の「集団的な人権」を守るために、ホロコースト否定論を規制したりすることも可能になりますし
(なお、私はホロコースト否定論者ではありませんし、ホロコースト否定論を初めとする歴史修正主義については批判的な立場であることを付言します。)、
国松元警察庁長官銃撃事件が公訴時効にかかった後の警視庁の「言い訳」は、「オウム真理教信者」の「集団的な人権」を侵害することにもなるでしょう。
むしろ、「集団的な人権」という考え方を推し進めるのであれば、特定の集団を特別扱いしないという「平等」の観点からは、「イスラム教徒」、「ユダヤ人」、「オウム真理教」等々の「集団的な人権」を認めるという方向性に行くのではないかと思います。
表現の自由は画餅となることは明らかです。