「倒れたシカは毛が凍りついてツララ状になっていた。傷口のまわりの毛から垂れ下がったツララには薄赤く血が混じっている。
手負いとなり、毛についた氷を落とす体温もなくなり、それでも必死に逃げようとして、
持てる力と知恵のすべてを出し切って生き抜いたこの三日間。
その野生の逞しさをこの赤いツララが物語っていた。私には、それが必死に生きた証に思えた。」
「ナイフを取り出しシカの腹を裂いた。その腹腔に凍えてかじかんだ両手をもぐりこませて温める。
シカの最後のぬくもりが、痛いほどの熱さで両手に染み込んでくる。私はそのまましばしの間じっとしていた。
最後の温もり、生命の温もりの全部を両手にもらった。」
「シカは生命の温もりで私の凍えた手を温め、うまい肉となって腹におさまり、私の生命に置き換わってくれた。
あのシカが生きていた価値、生きようと努力した価値は、そこから恩恵を得た私が誰よりもわかり得るのではないか、
そんな気がした。」

久保俊治「熊撃ち」p47〜61