兄は、先鋒だった。
副将に下がったことすらない兄が、本来ならばそんな立場に甘んじるはずがない。
だが、こちらの先鋒はヒロムだ。
どう考えても、狙ってやったに決まっている。
先ほどの余興で、遊部と川末には十分にお仕置きをしたつもりなのだろう。
そして、打擲を加えていないヒロムに制裁を加えるつもりなのだ。
兄の思考回路が手に取るようにわかる自分の頭がいっそおぞましい。
あの兄を相手にヒロムが勝てるわけがない。
いや、誰であっても勝てるはずがない。
それもただ負けるだけならまだいい。
対戦中に、再起不能にされてしまったら……。
「ヒロム……」
恐怖にかられてヒロムに声を掛けても、返事は無かった。
ヒロムは、場内の全てを振り切ったような目で、真っ直ぐに、兄を見据えていた。
ただ、卓に向かって踏み出す直前に、わずかに、私の方を見て、それから、
絶望的な戦地へと向かった。

第一セットの展開は、概ね会場中の予想した通りだった。
ヒロムは一ポイントも返せないまま終わった。
だけど、それが兄にとって不本意な結果であることに、何人が気づいていただろう。
兄はこのセットの間、ヒロムに幾度かトラップを仕掛けていた。
極端に左右に振ったり、卓の縁スレスレに拾わざるを得ない球を繰り出したり、
それで傷つけばヒロムの選手生命に関わるような、そんな攻撃だった。
それを、ヒロムは凌いでいた。
兄の顔には、隠しきれない不機嫌さがあった。

その顔は、第二セットの開始と共に、屈辱に歪むことになった。
1ポイント、2ポイント、先に取ったのは、ヒロムだった。
会場中がざわめきを通り越して、ひっきりなしのどよめきでひっくり返った。
兄が1ポイントを許したことすら、公式戦ではほとんど無い。
それが、連取など。
「ありえないわ……、そんな、こと」
一瞬、兄の敗北の姿を想像して、私は即座に頭の中からそれを打ち消した。
勝てるはずがない。
勝てるはずがないのに。
「そうでもないで、エリスちゃん」
遊部が軽々しい口調に似つかわしくない真剣な顔で近づいてきた。
「ヒロムちゃんはうちらの試合でも、自分の第一セットでもひたすらに見ることに徹していた。
 自分の一番強いところが目だと割り切って、その目でなければ倒せないと踏んだんやろな。
 理に叶っとるわ。そんな一点集中でもなければ、あの最強なお人には勝てん」
「多分今、アイツの目には、ハインリヒのわずかな筋肉の動き……それこそ目を動かす筋肉まで見えている」
補足するように川末が挟んできた言葉の内容はにわかに信じられない領域の話だった。
でも、それは真実だと思えた。
兄を見据えるヒロムの視線は、あらゆるものを貫く矛にさえ見えた。
「よく見といたりや、エリスちゃん。
 少なくともあのヒロムちゃんが激怒しているのは、君のためやで」
不意に続けられたその言葉は、何の抵抗もなくさっくりと私の心の心臓部にまで入ってきた。

ヒロムが5ポイント取ったところで、不意に轟音が響いた。
それが、兄の右拳と、それが叩きつけられた額から出た音だと理解した瞬間、場が静まりかえった。
今の低く響く音が鳴るほどの一撃は、どれほどの威力かと。
兄は非公式ながら、四階級上のボクシングチャンピオンと闘っても勝っている。
その拳が、自らの額を打ち叩くのに使われることを誰が想像しただろう。
眉間から鼻の稜線を割って二手に流れ落ちる赤い筋が、兄の顔を彩っていた。
その顔に浮かんだ怒りの凄まじさは、私でさえ見たことが無いものだった。
「ニーベルングと侮った我が身の愚かさよ。貴様をファフニールと思うことにする」
英雄シグルズと闘った巨竜の名を、兄はヒロムに向かって投げつけた。
だけど、それは立場が逆だろうと心の中だけで呼びかけた。
その時私の目には、ヒロムの持つラケットが神剣グラムに見えていた。