「待て、能美」
「え……?」
 驚いて振り返ってみれば、言葉を発した信行自身も、自分の言動に戸惑ったような顔を
している。
 しばしの間、二人はなんとも言えない空気の中で視線を交わし合った。
「いや、すまない……。その、良ければ、茶でもどうだ。話したいこともある」
「え……?」
「勿論、迷惑でなければ、だが……」
「い、いえ! 迷惑だなんて、そんな! ……そ、その、じゃあ、お邪魔してもいいです……か?」
「ああ。上がってくれ」
「は、はいっ」
 頷きながらも、綾は未だに現実感が湧かずにいる。
 だって、自分達の関係は、こんな当たり前のやり取りができるようなものではなかった
はずなのだ。
 綾が信行の真摯さに甘えて、無理やりにこの体を抱かせているだけ。だから、
“助けてもらう”という大義名分がなければ、彼女は信行にとって、生徒以上の存在には
なれないはずだった。
 だというのに、綾は今こうして、信行の家に招かれようとしている。情欲を鎮める為では
なく、ただ純粋に、客人として。
 それは、信行からしてみれば、なんら特別なことではないのかもしれなかったが。
 それでも綾は、胸の奥が温かくなるのを抑えられなかった。
(嘘みたい……こんなの)
 夢ではないかと、つい頬を抓ってしまう。だがそうしてみても、目の前の現実は醒める
気配がない。予期せぬ展開に戸惑いながら、綾は、促されるまま玄関へ入った。
 玄関から見た景色は、記憶の中のそれと何も変わらない。あの日から二カ月も経って
いないのだから、それも当たり前かもしれないが。
 あの夜、信行に助けられることがなかったら、自分はどうなっていただろうか。ふと、
そんな疑問が脳裏を掠める。
 破滅から救われた、そのことは疑いようもない。だが、今日までの出来事を思えば、
自分だけがその幸運に感謝することはできなかった。
 あの時、自分が凌辱に甘んじていれば――彼に、道を踏み外させることもなかった
のだから。
「どうした?」
「え……? あ、すみません! つい、考え事をしてしまって……っ」
 声を掛けられて、自分が靴も脱がずに立ち尽くしていたことに気付く。
 慌ててブーツに手をかける綾だったが、ふと視線を感じて、面を上げた。
「先生……?」
「いや……なんでもない」
 そう言って目を逸らす信行は、心なしか、いつもより優しい顔をしている気がした。