新次郎があさを迎えに九州に着いたその夕方、あさのサトシへの不安と自身の疑念を確かめるべく、悪阻で
動けないあさに代わって誰かに何か話を聞けないかと新次郎は炭鉱の周辺をウロウロとしていた。

「若奥さんの旦那様、相変わらず男前っちゃねぇ。」
「ほんにほんに。」
井戸端で女達がお喋りしているところに出くわし、新次郎は慌てて建物の陰に身を隠した。
「前に来んしゃった時も思ったばってん、役者絵から抜け出したみたいっちゃ。」
「ほんなごとそうちゃ!」
「うちの宝物たい。見ちょって。」
一人が懐からどこで手に入れたのか、色褪せた役者絵を取り出して見せた。
「坂田藤十郎!片岡仁左衛門じゃなか!」
「旦那様に似とられるわぁ。」

歌舞伎役者に似ていると褒められて新次郎は思わず鬢を手で撫でつけた。
「カズさんもそう思うやろう?」
「そうやねぇ…。」
新次郎のいる場所からは背を向けていたのでわからなかったが、カズは悪阻に苦しむあさによく尽くして
くれた人物である。改めて礼を言い、そこから会話のきっかけにしようと声をかけようとした時だった。
「違うとるんちゃ!カズさんはあん洋装の男ん人が良かとちゃ。」
「旦那様も男前ばってん、やっぱり…。」
カズはうっとりとした表情で『加野炭礦』の出入り口を見やった。
(何やて?洋装の男やて!?)
「ほんなごと格好良かったっちゃ。帰り際にうちの手ば握っち「あささんをよろしゅう頼みます」っち
おっしゃったん。そいで馬に乗っち帰っちしもたわ。」
「うちらや見やないんちゃ!羨ましかぁ。」

(まさか、洋装の男ってまさか…!)
『洋行帰りの殿方に負けたらあきまへんで。』
はつの声が脳裏に蘇った。

「カズ!いつまでくっちゃべっとるんたい!早う酒の支度せい!」
「すんまっせん!」
女達は慌ててそれぞれの家へ戻って行った。
(ん?あれは旦那様じゃなかか?)
「おぃ…ひえっ!」
「わてが知らん間ぁに…あの…五代の奴が…」
カズを探しに来た治郎作は物陰にしゃがみこんでいる新次郎に声をかけようとしたが、ブツブツと不気味に
独り言を呟く新次郎に思わずたじろいだ。
(男は外で働いて家族ば食わしていくもんじゃっちゅうになして加野屋は若奥さんを働かしちょるんか
わからんかったが、旦那様は気の病なんちゃろう…ここまで来んしゃるもえらかったやろう…怠け者じゃ
思うて悪いことばしたばい…)

治郎作にひどい誤解をされたまま、新次郎の九州での夜は更けていった。

ーお終いー