(今更やけど、いとさんはどない思てはりますのやろか…)

この日は山王寺屋の惣領娘・菊とその婿・栄達の祝言が執り行われていた。
栄達の目には綿帽子に隠れて顔は殆ど見えないが、真一文字に引き結ばれた唇は決して幸せな花嫁のようには
映らなかった。

祝言は恙無くお開きとなり、真新しい寝衣に着替えた栄達が部屋に入ると既に髪を解いた菊が栄達と同じく
寝衣に着替えて、なぜか栄達に背を向けるように座っていた。それでも行灯の仄かな明かりに浮かび上がる
菊の白い横顔はまるで歌麿の美人画のように美しかった。

「いとさん…」
栄達は菊のすぐ隣に座ってそっと手に触れようとしたが、びくりと身体を震わせて手を引っ込めてしまった。
(やっぱり…)
ふうっと息を吐くと栄達はにこっと微笑んで菊に話しかけた。
「そない怖がらんといて下さい。何も取って食おうなんて思てません。いとさんはわての事、なんもご存知や
あらしませんやろ。せやから昔話させてもらえませんやろか。」
寝衣の裾を握り締めていた菊の手が少し緩んだ。

「わてが八つの頃でしたやろか、ここのご奉公に上がりましたんは。そん時に初めていとさんをお見かけした
時のことは、昨日の事みたいに覚えてるんだす。お名前の通り、菊の花みたいに綺麗なお嬢様やなあって。
右も左もわからん子供でしたさかい、いっつも番頭さんや手代に怒られてばっかでしたけど、たまにいとさんの
姿をお見かけしたら、何やこう…嬉しい気持ちになりましてん。」

ちらりと菊の方を見やるが、未だ硬い表情を崩さないままだった。
「時々、お茶やお箏のお稽古のお供をさせてもらえる時がありましたやろ。何も喋る訳でもあれへんかったけど、
二人で外を歩くんがわてにはとても楽しいて…。
だんだんと、右も左もわからんかった子供も色々と訳がわかるようになってきて…いとさんがいずれは他所から
お婿さんをお迎えにならはるて知った時は、胸が痛うなりました。せやけど奉公人の身では何もでけしません。
ただひたすら奉公に励むしかあらしません。その日が来たらわてはどないなんねやろとずうっと思てました。」