>>443
そもそもふたなりってのは奇形を楽しむものじゃないから
玉有り派はそこを勘違いしてる

玉無し/有りの対立は器量の問題などではなく、「ふたなり」というものに求める原理原則の差の顕在だと言える

ふたなりというジャンルが成立した背景と経緯は、あくまで射精や陰茎への刺激という、男性が共感しやすい性快楽を女性キャラクターに付加するという動機に基づく
副次的には男性を介在させず女性・女体のみで場面を構成できる素地を得る事も、或いは動機の中にある
そういった目的意識を持つ中では、陰嚢を持ち込む事はむしろふたなりを志向する動機に反するものでしかなく、従って奇形趣味の度合いや器量がどうこうという論理ではない
須くノーマルなふたなりにおいて奇形趣味はメインのマターまたはテーマでは無い筈なのであるが、玉有り派と自称する奇形愛好若しくは男性器愛好者はそこを理解できていない

>>443のような彼らは、「自分がふたなりに興味があり惹かれる」という事を以って「他のふたなり愛好者も自分と同じ性的倒錯を前提にしている筈だ」と考えているフシがあるが、これが誤認である
この論理性の欠如が、議論の前提となるべき基礎的認識の大きな違いに繋がる
そうした前提意識のズレが、保守的(または原理的)な、「男性が共感し易く」「性交シーンに男性キャラクターを必須としない」旧来のふたなり愛好者との間で軋轢の原因になっている
前提が違えているものをうわべでいくら議論しても殴り合いにしかならないのは当然で、己自身やジャンルの掘り下げと客観視をするところから始めなければ永久に殴り合いのまま平行線になる
まず自分の性的倒錯が奇形趣味にあるという認識を得、次にはそれが他者とどの程度共有可能かという相対化が、議論の前提として求められる