敗戦直後2年間の空腹と無法とみじめさは, どんな意味でも今の人々の想像を超えたものです。
ヤミ食糧の売買は厳しく罰せられたのに、法律に忠実にヤミ食糧を食べなかった裁判官は餓死しました。
人々は食べるためだけに全部の頭と体を使っていました。
私の場合, 外地での敗戦後は、盗みと乞食だけで、1年間生き抜き、日本に帰って来たあとは1年間は、まったく学校に行かず,非合法製塩をして生きました。
この2年の空白に目をつぶって受入れてくれたT 学園にも、授業料と寮費は非合法の塩で払いました。

 こんな状況の中でこそ、人の生きる姿勢の本音があらわれるのだと思います。
そして、そこであわれたわずかな違いが、後年、決定的な差になってあらわれるのだと思います。
朝永は、敗戦直後の極端な混乱期に、理研彙報発表論文を正確に英訳し、1946年の Progress of Theoretical Physics誌の vol.I, No.2 に発表しています。
食糧がなく、創造的仕事をするだけの気力がなかったので、翻訳をしたと語っていますが、この時期のこの努力こそが、ノーベル賞を引き寄せるのに決定的だったと思います。