言っていることはわかるが、
ローティ=宮台的連帯可能性は外側から恣意的に提示されなければならない
エリートによるアジア主義の見直し・・・のように
そしてそれはやはり一つの物語としての限界がはっきりしている
これは方法論の次元なので大した興味はない
> 「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や
> 他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。
展開に異論はないが、私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える
>>97にあるように、
視点が現プレイヤー視点に更新された時には前プレイヤー視点は消去される
むしろ前プレイヤー視点と現プレイヤー視点は区別ができない
プレイヤーは感情移入の有無以前に対象化することができないのでは?