> ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは
> まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう
> 言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような
> アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。
ローティはアイロニストの私的態度(アイロニー)を共感可能性として外側から提示している
アイロニストが連帯性を広げられるのは同じアイロニストに対してであって、
そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか
それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる
> 「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも
> しれない。
「プレイヤー」は人間ではないのか?私が社会学の位相を離れられていないのか
あずまんのゲーム的リアリズムの可能性が文芸批評に留まらないという前提は共有されているように思う
私は>>95>>102に対する違和がゲーム的リアリズムを用いて説明できると考える
・>>95立場入れ替え可能性は属性や性質に阻害されることはない
・>>102立場入れ替え可能性を保障するものは素朴な実存的感情ではない
・立場入れ替え可能性はゲーム的リアリズム的想像力に依拠する>>97
・しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
複数性に開かれるべきなのは<私>でなければならない
それが<私>のキャラクター化という意味
「この私」に可能な世界を想像するのではなく、
「この私」が「ここ」ではなく「そこ」にいることを見ることができるかということ
>>105の<私のカノジョ>の例は「この私」に可能な世界の例で、
単一的な「私」にとっての「カノジョ」の複数性と私は捉える
(ベタな例とのことなので、同じように使われているブログ記事等あれば教えて下さい)
・結論は動物的動力を有効利用して社会をまわs(ry>>106