そう、もうはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。つまり都市はテクストではない。
あるいはアンチ・オイディプスの著者達の言い方からすれば、都市は劇場ではなく工場なのです。

さてこの工場をサーベイしていくには一体どうしたらいいのだろう。それには例えばこの東京
という都市、物質とエネルギー、情報とイメージのこの一大工場の脈関係ともいうべきこの道路網、
千に分岐しながらこの回路の全体を、そのいちいちを辿りながら漂流していくこと、それしかないの
ではないかという気がしないでもないです。全体像を鳥瞰するなどというのではない、むしろしばし
呆然と流れに身を委ね、千に分岐した回路の一つずつを辿っていくこと、ま、こうして我々は今東京、
このニュートラルなシミュレーション都市をあてどもなくさ迷っているわけです。

そう、東京こそがシミュレーション都市の典型といってもいいのかもしれない。かつてロラン・バルトは
東京のことをこんな風に語った、つまり、この都市は中心を持たない、もっと正確に言えば中心はある
けれども、それは空虚な中心である、こう語ったときに彼はこの空虚な中心の周りを昆虫のようにこう
ビュンビュン高速で旋回するタクシーの群れのことを語るのを忘れませんでした。だけれども、たぶん
あと十年遅かったらバルトはきっとそのタクシーの一つ一つの屋根についたこの小さなブラウン管、
そこにアワメキ(?)のように明滅しているデジタルな電子の映像のことを語ったに違いないという気が
します。実際、このTVタクシーこそがこの巨大なシミュレーション都市東京を語るもっとも有効なメディア
の一つかもしれないという気がするわけです。

それにしてもこうやって東京という都市を辿ってると、一番驚くこと、それはどこにも謎がないということです。
謎がどこか深層に秘められているとかではない、全てがあからさまに表層に露呈されてあるということです。
そう、言ってみれば、この底無しの深さの無さこそがこの都市の逆説的な恐ろしさでもあり魅力でもある
のかもしれない。