これは思想地図vol.1でのシンポジウムや鼎談を引き合いに出すまでもなく「並列」は
できないかもしれないが、密接に関係しあっているのは間違いないといえるだろう。
近代によって人類の生活環境は一変した。蒸気機関の発明がなによりも大きかった。
蒸気機関が「工場」を大規模化し、多くの人類が従事する仕事が農業から工業へ移行した。
この背景にはもちろん植民地があるという意味で「国家」と関係しているし、同時に
国内でも工業化によって人類は田舎から都市へ大移動したわけで、現在で宮台がうざいほど
指摘しているような「流動化」はこの時期にはじまったといってよい。都市化がはじまった
のだ。
そして、その都市化によってアイデンティティが喪失した、多くの工場労働者が生まれた。
これは現在の日本の状況とそれなりに似ているのではないかとわたしは考える。
この歴史を学ぶことで日本の現在の状況は相対化されるだろう。
そこで誕生したのが近代国家である。思想地図の文脈での「公定ナショナリズム」
に該当する情報が流布されはじめた時代でもある。「近代」と「国家」の関係に
ついての、わたしの側からの意見の前提はこれである。並列できないが、とても
関係しあっているとわたしは考えてる。 そして西欧から遅れて産業が近代化した「日本」
でも同様の変化、天皇主権による 大日本帝国の設立があったとさらに関連づけることも
できるだろう。
このような歴史過程を経て、その歴史をどのように受容するのか、
そもそも、本当に「全体性は消失」しているのか?単にわたしたちがそれに気づき
にくくなった、もしくは、気づいたところでどうにもならない(シニシズム)が
まかり通っているだけではないか、と最後に問題提起しておく。
宮台は現在を「全体性の消失」と分析したが、それは果たして本当なのだろうか??