「自分が誰であってもいいからこそ、誰でもいい人物と共感する。今の若者は、地縁も血縁も意識せず、「自分が選べないもの」をあきらめて
受容するという経験が少ない。今は、「おれは誰でもいいんだ感」や「おれは何にでもなれるんだぞ感」が広く醸成されている。だから、その人
たちの共感は、たとえばペンキ屋さんの息子がペンキ屋を継ぐしかなかったから、似た境遇の家具屋さんの息子に共感するという感情とは違う。
これは、ネオリベラリズムによって社会の流動性が高まった結果です。今の競争社会は、いわばギャンブル社会。スタートは同じだけど、後は
「がらがらがっしゃーん」で何人か抜けて、残りが負け組になる。こういう社会では、無名性、匿名性の感覚が強くなるから、今回のような事件
が共感される。この状態は変える必要がある。でも、これはかなり抽象的な視点でようやく指摘できる話。今回の事件を、単純に労働問題とは
結びつけにくい。
あと、マスメディアの若者像は、90年代半ば、援交少女の時代から凍結されている気がします。テレビで若者の街として映るのは今も渋谷です。
週刊誌で仕事をすると「中高年の読者に分かる書き方で」と言われますが、僕はもう37歳です。でも、いまだに若者扱いです。
社会的に事件を包摂できない背景には、そういうマスコミの事情もあると思います。就職氷河期などで世代交代が進まなかった時期にネットが
普及したから、ネットと従来のメディアとの関係が、世代間格差に重ね合わされている。」