【エロゲ特任教授】東浩紀スレッド126【ゼロアカ帝国皇帝】
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>>62
>それを同等に並べること自体がおかしいんだよ
しかしよく分からない三角関係だね
論壇がばかぁ?というだけならわからないでもないけど…… >>64
なんでそんなにローティごり押しなんだ?
ローティの手の届かないような脱社会的ポジションにいる人間に
光を当てるような東の言説はそれだけで十分のような気がする
それこそ立場可変性も感情教育も成り立たないような動物を幸せに生かすのが
あずまんの根底にはあるわけだし
思想地図シンポジウムは「反論のための反論」の反論ができない東の負けで
実質的にあずまんはエリート主義だと思うよ
だから矛盾なく繋がってるように思うよ >>66
いや近頃の東がローティの丸写しのように見えてきて……
ま、>>40でローティに関する質問がふられたからその勢いで、というのも
あるけど
>東の負け
それでいいんかい!!と普通におもうし(笑)
では寝る、ID表示スレはそれなりに真面目な場ということで末永くヨロ >>67様
せめて文芸書籍サロン板にしてあげればよかったのに……。
いつの間にか東浩紀スレが三つに分裂しているな。
それぞれ東浩紀(R)東浩紀(S)東浩紀(I)と名乗ると良いだろう。 東浩紀(R)東浩紀(S)東浩紀(I)のうちのどれ? IDの出る板をジプシーしていけばいいんでね
東はもう誤配を進めるために無理にサブカル批評をするつもりは無くしてるって明言してるんだし、この板は
そういう意味であってない 葉鍵板でいいじゃん、東の娘の名の由来からして
「クラナドは人生」を忠実に守ってるよ
キャラを自分の娘の名に付ける東は偉いよ >>67
> それでいいんかい!!と普通におもうし(笑)
というか、そうでしかないと俺は思っただけだよ
一部思想地図シンポジウムのレポでは東圧勝みたいな書き方もされていたけれどね
あまり納得のいく内容ではなかった
社会を変えていかなければならないのに、社会に興味関心のない存在がいる
彼らは社会を構成していない(と思っている)から、社会的なものにコミットする必要もない
これを脱社会的存在としても動物と呼んでも構わないが、思想地図シンポジウムでは
このような存在を受け入れた上でどう社会を回すかという問題が共有されていた
もとより一部の人だけが社会に関わるのは前提だったんだよね
だからその一部の人をエリートと呼ぶなら、あずまんから何から全員エリート主義
単純にエリートを人間/システム(環境)に二分化して話が進んだなら別だし、
あずまんもそれなりに応じられたと思うが、初めに宮台がこの構図を崩したからね
葉鍵板ってどこにあるの? 宮台のエリート主義は「温かいエリート主義」で
あずまんのは「冷たいエリート主義」。
ようするに、有能な人間をその場で集めて、用が済んだら
使い捨てればいい、って言ってるようなものでしょ。
そのくせあずまん自身はちゃんと「温かいエリート主義」の
側に属しているんだよね。ほんと、どうでもいいわ。 >>77
> あずまんのは「冷たいエリート主義」。
> ようするに、有能な人間をその場で集めて、用が済んだら
> 使い捨てればいい、って言ってるようなものでしょ。
どこからこういう解釈をしたのか説明してほしい >>80
ワレオタさんがそうおっしゃってました
東はエリート主義を否定しているようで実は超エリート主義だとか
なんとか覚えてないんだなこれが 過去ログアサってみたけど見つからなかった・・・
>>77みたいな話はそのときに読んだとおもったんだが
ワレオタさん後は頼んだ > ID:qx8P4yGI0
お前は哲板で雑談してろ。 冷たいとか温かいのアナロジーは恣意的なものに過ぎないし、
エリートによって救われる大衆にとってはどっちでもいいこと
それよりワレオタをそのまま引用した挙句、
ソースも提示できないのは酷すぎるだろう あっちのスレに藤田が居座ってて超ダルイわ…
なんなのあいつ… ローティに詳しそうな人がいたのでこっちに核
立場入れ替え可能性の想像力を持たないと動物なのか? 立場入れ替え可能性の想像力を持つとユートピアが生まれる。 もし自分がイスラム原理主義者だったら、とか
ちょっと考えられないなあ。 >>93
単なる性質の交換に矮小化するのはどうかと思う。 イスラム原理主義者と普通の日本人では
思考の方法から行動原理から何から何までかなり違うと思うけど。
性質とか属性の話じゃないと思う。 あずまん、ねと☆すたのHPでCLANNADとKeyについて
熱く語った動画がUpされております。
それによると「クラナドはヤンキー」だそうでw >>95
その次元での「もし<私>が<あなた>であるならば」という仮定は哲学ですらない
学校で「自分がされて嫌なことは相手も嫌がるのでやめよう」程度の説教がいいところ
それは「イスラム原理主義者」や「普通の日本人」のような架空の共通前提の上でしか成立しない
立場入れ替え可能性は、
<私>が<この私>を忘却した記述不可能な<私>になることを要求する
ゲーム的リアリズムを現実の<私>に適応させるような視点を求められる
プレイヤーのキャラクター化をしなければならない 近代に勃興した“実存主義”的思考への反動、アンチテーゼみたいなもんか。
そういや“すべてが私小説化”した一般文学から脱却した、もうひとつの軸としての
「ゲーム的リアリズム」みたいな事を東氏は言ってなかったかな。 うわー、くそー、100取られた
100getうらやましす、こいつまじスゲエぜっ! >>95
かなり違うけど、人々が「残酷」と思う事柄から共通する感情が見い出せる
可能性はあるかもしれないという意味。戦争で子供が死んだら悲しいとか、
日本人でもイスラムでも同じ親心ではないかといったところからくる連帯の
可能性。
>>97
哲学というより論理を構築するためのゼロ地点のようなものとして、そのような
仮定をロールズが立てた。ローティの場合は、それは学校で説教されるような
ことでなくて、人々がそのような想像力をもつことによって連帯できる可能性が
あるということになる。それから「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や
他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。 >>98
「ゲーム的リアリズム」はそれまでの私小説やライトノベルとの形式的な差異を
強調するために掲げられた用語で、これは柄谷の近代文学史からの最前線にある
ものとしてみたほうが適切。ローティの場合は、実存主義に関する言説に対する
徹底したアイロニストであって、世界中全ての人間がそのようなアイロニストに
なることによって世界に素晴らしいユートピアが誕生すると考えている。
「ゲーム的リアリズム」とは実存の文学のことで、ゲーム的(≒リセット可能)で
あるにも関わらず、ゲームではプレイヤーのキャラクターが何度でも死ねるにも
関わらず、そのゲーム的な小説では人間の死ないしその反転としての生を描けると
いう新しい形式のあり方を指している。これを東が「ゲーム的リアリズム」と呼び
実存を描く作品の新しい形式のあり方として加えることを提案している。 >>102
言っていることはわかるが、
ローティ=宮台的連帯可能性は外側から恣意的に提示されなければならない
エリートによるアジア主義の見直し・・・のように
そしてそれはやはり一つの物語としての限界がはっきりしている
これは方法論の次元なので大した興味はない
> 「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や
> 他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。
展開に異論はないが、私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える
>>97にあるように、
視点が現プレイヤー視点に更新された時には前プレイヤー視点は消去される
むしろ前プレイヤー視点と現プレイヤー視点は区別ができない
プレイヤーは感情移入の有無以前に対象化することができないのでは? >>104
ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは
まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう
言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような
アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。
宮台は「一つの物語としての限界」を承知しつつ、それでも「あえて」エリートが特に
例外的な状況に対して対処すべく、養成されなければならないと考えている。
これは社会論的な問題で、哲学の問題ではない。哲学に興味ある人がこのことにあまり
興味を持たないのはそれはそれで当然だともいえる。むしろ東があちこちに首を突っ込む
ほうがどうかしてるのかもしれない。東は哲学的に論理的にやれることは全てやり尽く
してしまったという想いないし挫折感があるのかも。情報理論とデリダ哲学の関係付けとか、
東がやって然るべき仕事はたくさんあると思えるけど、その重い腰をあげる気はないようだ。
>私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える
「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも
しれない。「プレイヤー」を対象化する作業は興味深いそうだけど、簡単ではなさそうだ。
ベタな例えでいえば、ある女と付き合って別れて、そして新しい女と付き合っているときの
ような状態がそれに似ているのではないか? その場合の「女」というフレームがそのまま
「プレイヤー」と等値できる可能性はある。記憶を保持し続ける主体としての自分と、記憶
なき複数性の世界ないしその複数性を含み入れているフレームと、そしてそのフレームを
内面化している自分自身の関係として整理してみたらどうだろうか。 >>91
動物は「立場入れ替え可能性の想像力」など持たない。あくまで動物として生を
実践しているだけ。ただこれは自然界のいたるところで見られるように、判り易い
例でいえば、ミツバチは花の蜜を吸うのは単純に蜜がほしいから、でも花はその
ミツバチの性質を利用して、花粉を他の花へミツバチを介して受粉させているみたい
な関係が築かれている。東はそれを人間の「政治」でもできるだろうと考えている。
その東の着想の原点はやはりローティにあるだろう。ローティは「哲学」と「政治」
を切り離すことを提案している。「政治」を実践の場として考えること、ローティ
は「政治」の場はプラグマティックに構築されるべきだと考えた。それを更に進化
というか退化させたのが東で「政治」を人間の動物的な性質から構築されるような
場に「落とす」ことを考えているようだ。 >>105
> ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは
> まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう
> 言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような
> アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。
ローティはアイロニストの私的態度(アイロニー)を共感可能性として外側から提示している
アイロニストが連帯性を広げられるのは同じアイロニストに対してであって、
そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか
それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる
> 「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも
> しれない。
「プレイヤー」は人間ではないのか?私が社会学の位相を離れられていないのか
あずまんのゲーム的リアリズムの可能性が文芸批評に留まらないという前提は共有されているように思う
私は>>95>>102に対する違和がゲーム的リアリズムを用いて説明できると考える
・>>95立場入れ替え可能性は属性や性質に阻害されることはない
・>>102立場入れ替え可能性を保障するものは素朴な実存的感情ではない
・立場入れ替え可能性はゲーム的リアリズム的想像力に依拠する>>97
・しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
複数性に開かれるべきなのは<私>でなければならない
それが<私>のキャラクター化という意味
「この私」に可能な世界を想像するのではなく、
「この私」が「ここ」ではなく「そこ」にいることを見ることができるかということ
>>105の<私のカノジョ>の例は「この私」に可能な世界の例で、
単一的な「私」にとっての「カノジョ」の複数性と私は捉える
(ベタな例とのことなので、同じように使われているブログ記事等あれば教えて下さい)
・結論は動物的動力を有効利用して社会をまわs(ry>>106 今頃あずまんスレの存在に気付いたw
ネットスターで風子の中の人からヒトデもらいそこねてすねてたあずまん萌え いや、風子の話は重要だと思う
『ファントム・クオンタム』にもでてくるし、同名のキャラが どう大切なのか自分で語るものじゃないの?
大切だと思う、で完結したら会話にならないよ。 もうid付きのこのスレでいいよ
勢いが激減するかもしれないが >>107
>そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか
>それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる
公と私を直接つなごうとはしない=ローティ
公と私を天皇とか物語でつなぐ=宮台ほか
こんな感じだろう。
>しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
精神的には可能だろう。
あずまんも精神的には痩せている。
>「この私」に可能な世界を想像するのではなく、
>「この私」が「ここ」ではなく「そこ」にいることを見ることができるかということ
何やら難しそうな話だ。。 文字起こししたよ(^o^)ノ
浅田彰 No.8(1986年テレビ放送)
http://jp.youtube.com/watch?v=hjCl8fotdpQ
そして戦争が終わり、我々はすっかり変貌してしまった都市のなかで終わりのない時を
生きています。境界と中心によって空間的に確定され、サンボリックな言語的秩序によって
支配された古典的なポリスとしての都市ではなく、アメーバ状のスプロールによって外部との
境界を失い、エレクトロニックメディアの散布するイマジネールな表層的映像の洪水のなかに
どっぷりと浸り込んだ、そういうシミュレーションとしての、そう、それはまさにボードリヤールの
いう意味でのシミュレーション都市であって、そのなかでは映像が現実を模倣すると同時に
現実が映像を模倣する、そういう奇妙なループが止め処もなく反転し合って、まわっている
わけです。
この都市は全体像などというものを持ち合わせない。もちろん中心となるべき舞台などと
いうものはない。したがって中心と周縁あるいは表層と深層といったものの反転がもたらす
弁証法の劇といったものは、まあどこにも見当たらないといったほうがいいだろう。ただヒト
エキ(?)の空間の中を、電子の薄膜と化したイマジネールな映像の群れが飛び交う中で
弁証法的な反転ならぬノーセンスな反転、両義的な反転が繰り返されているばかりです。
考えてみればかつて流行した劇場都市モデル、あるいはそれを使った都市の文化記号論など
というものは、たぶんそういうシミュレーション都市の状況のなかで失われた有機的全体性への
センチメンタル、あるいは感傷的なノスタルジーが産み出した一種のフィクション、少なくとも
イリュージョンに過ぎなかったのではないか、そんな気がしてなりません。
実際のところ、シミュレーション都市のリアリティあるいは、まあ、ハイパーリアリティといった
ほうがいいでしょうか、そのなかでは何かこう、濃密な意味を帯びた伝統的都市空間をテクスト
として読み解いていくとか、あるいはそこで上演される劇をのんびりと鑑賞するとか、そんな暇は
とてもない。むしろ、あらゆる意味のシステム、あらゆるドラマ、そういった一切の破壊されたあと
にあるノンセンスな流動状態の残酷な輝きだけが問題なのです。 >>118
>公と私を直接つなごうとはしない=ローティ
>公と私を天皇とか物語でつなぐ=宮台ほか
ローティ全く知らんのだけど、公と私を直接つなごうとはしないんではなくって、私が公的な外へ向かう意識を持つ必要はないっていうことでいいの?
公的意識のようなものをアイロニカルにとらえて何らかの実践を行うことで、連帯可能性が生まれるみたいな感じ?
>>107
>しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
これについてはよく理解できない
↓こんな感じ?
ジル・ドゥルーズのわかりやすい言葉でいえば、この現実のほかにいろんな可能性があるということではなく、
ほかならぬこの現実が潜在性においていかに多層的で豊かであるかを発見することが重要なんだ、と。
そこのところを、そのあとで出てきたSFやアニメやコンピュータ・ゲームの類は全部間違えている。(略)
本当はこの現実しかない、言い換えればメタロジックなんてものはないんだから。by浅田彰 そう、もうはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。つまり都市はテクストではない。
あるいはアンチ・オイディプスの著者達の言い方からすれば、都市は劇場ではなく工場なのです。
さてこの工場をサーベイしていくには一体どうしたらいいのだろう。それには例えばこの東京
という都市、物質とエネルギー、情報とイメージのこの一大工場の脈関係ともいうべきこの道路網、
千に分岐しながらこの回路の全体を、そのいちいちを辿りながら漂流していくこと、それしかないの
ではないかという気がしないでもないです。全体像を鳥瞰するなどというのではない、むしろしばし
呆然と流れに身を委ね、千に分岐した回路の一つずつを辿っていくこと、ま、こうして我々は今東京、
このニュートラルなシミュレーション都市をあてどもなくさ迷っているわけです。
そう、東京こそがシミュレーション都市の典型といってもいいのかもしれない。かつてロラン・バルトは
東京のことをこんな風に語った、つまり、この都市は中心を持たない、もっと正確に言えば中心はある
けれども、それは空虚な中心である、こう語ったときに彼はこの空虚な中心の周りを昆虫のようにこう
ビュンビュン高速で旋回するタクシーの群れのことを語るのを忘れませんでした。だけれども、たぶん
あと十年遅かったらバルトはきっとそのタクシーの一つ一つの屋根についたこの小さなブラウン管、
そこにアワメキ(?)のように明滅しているデジタルな電子の映像のことを語ったに違いないという気が
します。実際、このTVタクシーこそがこの巨大なシミュレーション都市東京を語るもっとも有効なメディア
の一つかもしれないという気がするわけです。
それにしてもこうやって東京という都市を辿ってると、一番驚くこと、それはどこにも謎がないということです。
謎がどこか深層に秘められているとかではない、全てがあからさまに表層に露呈されてあるということです。
そう、言ってみれば、この底無しの深さの無さこそがこの都市の逆説的な恐ろしさでもあり魅力でもある
のかもしれない。 この都市を覆う映像のこの徹底した深さの無さ、この徹底的な表層性というものを、しかしどうやって理解
すればいいのか。そのためには第一章でこのエレクトロニクスな映像を十七世紀のオプティカルな映像と
比較してみたい、ここでもう一度大きく迂回してこのエレクトロニクスの映像というものを例えば鏡の映像、
あるいはそれとは質的に異なる写真の映像、そういったものと比較してみる必要があるのではないか
という気がします。
鏡の時代というのがヘーゲル的な意識の時代であり、それに続く写真の時代というのがフロイト的な
無意識の時代であるとすれば、エレクトロニックな映像の時代というのは何なのだろうか。
まあそういった意識や無意識といった全てを断片化する、千の破片に砕いて表層に飛散させる時
なのかもしれない。かつてアンディ・ウォーホルはあれら表層的なイメージの残酷にして愚鈍な反復に
よって解をみせてくれたように。
しかしまたそれはそうした表層的な無意識が漂うその背後の空洞に、その巨大な空洞に、一種のその
集合無意識、フロイト的なそれというよりもユング的なそれが、無数なアルカイックな神話的イメージの群れ
を伴いながら回帰してくる、そんな時代なのかもしれない。
もし後者が真実なのだとすれば、そしてまた実際テレビゲームにみるようなハイテクマシーンとある種の
神話的イメージとの奇妙な短絡をみる限り、その後者である確率が非常に高いのですけれど、もしその
後者であってみれば多分その我々にとっての未来、現実的な近未来というのは単に未来的なものではない、
単にフューチャリスティックなものではない、むしろフューチャリスト・アルカイックなもの、未来的にして且つ
古代的なものといったほうがいいでしょう。
まあ、フューチャリスト・アルカイック、未来的にして古代的、この奇妙に魅惑的な、しかも恐ろしい状況の
中では、例えばその都市の中心にある巨大なディスコ、最新のエレクトロニックメディアで武装したディスコ
というのが一種の神殿のような役割を果たすかもしれない。 文字起こししたよ、パート2(^o^)ノ
浅田彰 No.9(1986年テレビ放送)
http://jp.youtube.com/watch?v=WPmskNsDQDg
エレクトロニクスの産み出したシミュレーションの宇宙から出発し、メディアネットワークに覆い尽くされた
シミュラークル都市をくぐってきたビデオ・エボリューションの企てはそろそろ終点に近づいたようです。
これまでみてきたように、現代がかつての科学革命と同じくらい重大な変化の時代だとすれば、
今問われているのは十七世紀、十八世紀のバロック文化に比肩しうる文化、テクノ・バロックとでもいった
ような文化を産み出せるかどうか、このことでしょう。
そのために必要なのは一体何なのか、バロックの時代、それが旅と交通の時代であったことを思い起こす
必要があります。実際、ヨーロッパ中を旅してまわったデカルトからライプニッツに至る哲学者をはじめ、
遍歴の職人達、遊行の芸人達を含めて、この時代は無数の旅人に溢れていた。無論、スピノザやフェルメール
のようにあまり動かなかった人々もいるわけですが、彼らにしてみても、例えばオランダという商業共和国
のなかで、世界的な交通の結節点に身を置いていたわけです。
こうした活発な移動のなかで、様々な要素が激しくぶつかり合い、互いの差異や矛盾を際立たせる、
それこそがバロックといわれるあの文化、光と闇、中心と周縁の二元論的対立を超えた、真に多数多様な
文化を形づくっていった原動力ではなかったでしょうか。
それに対し、マスメディアのネットワークが巨大な電子の子宮となって全てを柔らかく包み込もうとする
状況によっては、多彩に見えながらその実、同質的なイメージの洪水のなかで差異や矛盾が中和され
隠蔽されてしまう危険、そのなかで移動しているつもりではあっても結局は堂々巡りでしかない危険を
指摘しないわけにはいきません。 今必要なのは、そういう閉じた世界を破って、差異や矛盾を突出させていくこと。そのためにもマスメディア
に抗して、無数のマイナーな声が移動し交錯する、多様な交通の状況をつくり出していくことでしょう。
いやそもそも、今のように巨大なマスメディア自体これからも必要なものなのかどうか、それは平均的大衆
という虚像に向けて、浅く広い同質的な情報を投げ与える送り手であることをやめ、むしろ異質な声の
呼び交わす分散的なメディア網の局所的中枢点(?)へ発展的に解消されていくべきなのではないか。
そのために多様なマイナーメディアの実験が必要とされていることはいうまでもありません。
しかしまた、そう、例えばテレビ局が最も完全なエレクトロニックメディアである電話網の交換台のように
なる日を夢見ることもできます。電話網のなかではある一定の瞬間ビジネスの話がなされているかと思うと、
愛が語られていたり、軽い冗談が交わされたり、また同時に極めてハードな科学の情報や哲学の議論が
交換されていたりもする、その傍らをデジタル化された様々な情報がパルスの列となって走り抜けていく
というわけです。
まあ、ちょうどそんな具合に、テレビでも少なくとも夜の間くらいは、マスに向けたものではない、各々に
特異な内容を持ち、ばらばらな方向を向いた情報が流されてもいいのではないか。一家に一台という電話
に対し、ビデオが二件に一件というところまで迫りつつある今日、そうした情報の断片がビデオカセットに
よって私的に取り交わされたりすることがあってもいいのではないか。そんなアイデアのとりあえずの表現が
このビデオ・エボリューションのプログラムに他なりません。
実際このプログラムが至って特殊な形でつくられたことを付け加えておく必要があるでしょう。
本論はマスを対象として意識(?)することなくつくられ、そもそも台本も無しにともかく今この時考えている
ことをテレビだからといって角を落とさず、生のまま即興的に語るという形で構成されたのです。更に四時間半
といえば実質一時間番組一ヶ月分、いや六週分にもあたるという。わずか二週間で、いや、カメラを回した日数
に至ってはたった四日間でつくられた。しかもほとんどテレビの放送にはタッチしたことのない人達、いわば
テクノ・キッズ達ばかりの手によってつくられた。それはまさに、こうして気軽につくられた強いバイアスをもつ
映像が電波に乗って流れてもいいのだということを示すためでもあったのです。
願わくば、これが呼び水となって、こうした試みが次々に続いて欲しい、いや、今となってはもうそうなるより
他はない。TVエボリューションはとっくの昔に始まっているからです。
<終>
浅田彰 No.8
>>119>>121>>122
浅田彰 No.9
>>123>>124>>125
>>120
間に挟んでゴメン>< >>120
ローティにそれほど詳しくわけじゃないけど、公はプラグマティックにやりましょうと
ゆう話だったと思った。
それからアイロニカルとは、自分自身に対しても含まれるからアイロニカル。
公的意識に対してのみならず、今自分が語っている言葉でさえ信用ができないという意識
かな? 文字起こし乙です。
タイミング悪く書き込んでしまった。。すみません。。
73 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2008/07/15(火) 19:10:10 0
http://jp.youtube.com/watch?v=hjCl8fotdpQ
http://jp.youtube.com/watch?v=WPmskNsDQDg
2ちゃんやニコ動なんて80年代に浅田が予見して論じてるよな。
古いよあずまんは。
↑これの文字起こしだね。
マクルーハンのようなメディア論というよりは未来予想図みたいなものですね。
テレビ→電話・ビデオ→2ちゃん・ニコニコ(インターネット)へのメディアの変化は間違いないと思うけど、マスを対象としてないっては言えないんじゃないかなー。
ニコニコのコメントは動画を見ているかもしれない誰かに向けて発信されているんだろうし、2ちゃんの書き込みだって誰かに反応されることを前提としてるはずだし。
マスの範囲が縮小しているってことなら、2ちゃんニコニコのタコツボと同じように新聞・テレビもタコツボ化してるしね。
電話・ビデオのような個人的な通信が意図しない流出でマスに表出するような事態もあるし、今ならもっと丁寧に分析できると思う。 >>126
レスどもです。
そこまでのアイロニーな態度が公共性に転化されるようなことがあるのか。。
いや転化するかのように私と公を連関させるような思考が間違ってるのか。
ローティ読んでみます。。
>>128
俺に友達なぞいない\(^o^)/
>>129
( '・ω・)人(・ω・` )ナカーマ・・・ >>129
>>130
( `・ω・)人(`・ω・´)人(・ω・´ )ナカーマ!! >>129
>>130
>>131
( `・ω・)人(`・ω・´)人(・ω・´ )人(・ω・´)ナカーマ!! あずまんにとっての北田さんのような存在、かな?
でもあずまんって、のちのち袂を分かつ友人も多いよな。 人は人である限り政治を語って良い。しかし、お前らには広大無辺の大地を見渡す目と
億の民を食わせる気概が足りぬ。ふたたびこのスレに書き込むならば命をはった言葉で
全体性を語りに来い。 全体性を語ろうとすることがいかに無意味であるか自覚できないのか?
細分化された部分の強度を高めるような語り以外は不必要っしょ。 >>144-145
思想地図シンポでの宮台と東のやり取りを思い出すな。
しかしあずまん、打ち上げの飲みで宮台と腹を割って話した模様を
後ほどブログにアップするって言ってたが、まだかねえ。 もしも全体性を担う機関が存在してないなら、つまり、国家とか総合大学とか
存在してないのなら、>>145にも百歩譲って一理あると言えるだろう。
だが、私達は「近代」を経由してきているのだ。富国強兵策によってこの国家
の基礎を築いたという歴史を経てきている。そういう歴史の偶有性を見て見ぬ
ふりなど、できるわけがない・・・ >>147
詳しい説明サンクス
それなら宮台が怒るのも当然な気がする >>147
歴史なんて全く関係ないでしょうが。
国家が存在しようがしまいが、それとは無関係に生きられるシステムが完成していて、
我々は全体性を意識する必要も、ましてや認識しようと努力する必要もない。
3行目以下の富国強兵…は理解不能。
偶有性は歴史に所属するんではなくて、今がこうなっているということ以外に説明できない情況っしょ。 それに「今がこうやっている」状況を説明するために時系列的な経緯を
用いる(=歴史)ことは理に適っていると思うがなぁ >>150
全体性って言葉の意味が食い違ってる。
全体性は固有名を剥ぎ取った観念的存在。
全体性について語るのが無理だというのは、その全体性について語られる表象が、
全体性を作り上げる個別で具体的な要素と大幅に食い違うのがよくあることだから。
ID:TrP+Xymr0が言う全体性は、大勢の人にとって影響のあるモノってことっしょ?
だとすれば国家や警察もいいけどサヨっぽいからグーグルでも語ればいいと思うよ。
>>151
俺の使う全体性と無関係なので言いたいことはわかるけど〜、
「今がこうなっている」状況を歴史で説明しても、その因果関係の正否は問えない。
もしある歴史(因果関係)を理に適っていると思ったとしても、ある人はそう思わない。南京大虐殺とかあるっしょ。
歴史についても上と同じように全体性なんてもんは語れませんよと思いますよ。 >>152
東が「なんとなく、考える」でその全体性について書いてたな…
評論や批評とは何かで、それは「全体性」があると偽装するものだとシニカルに
書いていた。個別の案件や事件や作品のみについて語ることが評論や批評である
ならば、現在のオタク界隈のようにそれが一ジャンルとして蛸壺化してしまって、
それは評論や批評だとみなされない(少なくとも文芸誌にみられるような評論や
批評はオタク界隈に関する言説を評論や批評とみなしてない)現状から述べていて、
そして、文芸誌に掲載されるような評論や批評が、何か意味・価値がありそうな
立派なものにみせている幻想・錯覚の力とは、それがインチキであるにも関わらず、
その評論や批評には「全体性」があると思わせる力があるからだと、こんな具合に。
だいぶ前に読んだから正確でないんだが、「全体性」への錯覚・偽装がないと、
しょせんあらゆるジャンルがそれぞれのジャンルで蛸壺化するだけだとも書いていた。 >>150
「全体性」について語るのが無理だから、「日本」について語るというほうが
実践的であると言えるかもな…思想池図VOL.1みたいだけどなw
それくらい全体性は消失してるのかもしれないし、全体性とはむしろアメリカや
中国に対抗して語られる民族的イデオロギー(敵が設定されることで自分たちの
輪郭が描かれるような)であったり、グーグル的な、工学的社会システムの総体
を意味していたり、個々人の誕生から青年期、中年期、壮年期へいたる一連の人生
(具体的には雇用問題であったり年金問題であったり)の保全であったり、さまざま
な語り口から「全体性」がまだそれなりに機能しているような錯覚を私たちは抱いて
いるのかもしれないな…
もしくは一気に地球環境全体とか、ボーリング玉みたいにクルクル回る星としての
地球みたいなLOVE&PEACEw >>150,154の翻訳をお願いします。
>>152の話を東的見方で続けるとすれば、
「日本」について語るのが無理なんだってば。
日本の中のなんか細々とした一つのことについてしか語れない。
年金問題について語ろうとしても、年寄りと青年間では断絶がある。
それぞれの立ち位置でしか語ることはできない。
むしろ積極的に自分の価値と教養を踏まえた視点で語るべき。
それを包括できるようなシステムさえあればいい。
>>155
「日本」について語るのが無理、と言いながら否定的に語ってるww
それに「包括できるようなシステム」を本気で考えれば、「近代」や
「国家」や「日本」の問題に行き着く筈だろうに、お気楽ご気楽やねぇ
無知をさらけ出すことをおそれない勇気というのは評価されるべき
「日本」を「全体性」として読み替えた上で宮台のような反論をするならまだしもw
「近代」「国家」「日本」て並列できんのかよw
何にせよ>>152が哲学を語ろうとしているのに対して>>157は小林よしのり次元の社会学を語ろうとしているのがよくない
人が増えたら少しはましになるだろうね >>158
哲学以前に言葉いじりだろ?文脈でわかるようなところを
いちいち語法の問題にしてうだうだ言ってるだけじゃん。
観念としての「全体性」が消失したというのなら、その
観念としての全体性が何であったのかを再考すればいいだろ?
その言葉の屁理屈ぶりは近頃急速に低脳化した東浩紀を彷彿
とさせるから気ぃつけな。 まあ、かつて東本スレで大恥をかいた福嶋の論法と同じではあるがなw君は そんなムキになるなよw
観念としての全体性の再考なんてそれこそ言葉いじりだろうねぇむだむDA
東が低脳化したとは思わないが全体性について語ることが不可能になる・元々不可能だったことが認識されることと
ラノベ系小説群の固有名の消失は別志向でないかとは思うね >>161
ああ、別人か、ID表示もあんまり意味ないかもなw
だがその揚げ足取り的な自己正当化は低脳の福嶋そっくり過ぎるぜよ
気いつけや 福嶋とかしらねーしw
近代が重要やwwwwとか低脳ぶり晒け出してるといじめにあうぞw 冷静にみて、どっちも低脳だ・・・
しょうもない煽り合戦なら本スレでやれよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています