【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖60杯目 [無断転載禁止]©bbspink.com
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【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖60杯目
孤高。そして、孤独。
冬馬 かずさ (とうま かずさ)
Personal Data
(introductory chapter)
峰城大付属3年E組。
誕生日、5月28日。
窓際の席で常に居眠りしている。遅刻・サボリの常習犯。
雪菜と対極にいる時代錯誤の不良娘。
裕福な家庭だが、親がほぼ不在。
長く艶やかな黒髪、モデル顔負けのスタイル、切れ長の瞳。
外見のイメージに反して、甘い物(プリン・ポートワインなど)好き。
どちらかと言えば緒方理奈派。
(closing chapter)
多分ピアニスト。きっとウィーン在住。その他の詳細不明。
母であり、欧州を中心に世界中で活動するピアニスト冬馬曜子は、
たびたび日本のメディアにもその活躍ぶりが紹介されているが、
その不良娘にして実績のない若手ピアニストのことは、
今現在でも日本ではまったく知られていない。
彼女がふたたび日本の地を踏むことは、果たしてあり得るのか…
【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖59杯目 [転載禁止](c)bbspink.com
http://nasu.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1447098546/
※次スレは>>950頃に宣言してからスレ立てをして頂けますようお願い致します。
シナリオ担当・丸戸史明による冬馬かずさ評
「捨て犬に懐かれると、とんでもないことになるという見本。というわけであまりにも忠犬。
吠えても噛みついてもすねても常に尻尾は振ったまま。
さらにやっかいなのは、元捨て犬のくせにじつは血統書付きで毛並みが最高なこと。もふもふしてあげるとわかりにくく超喜びます。
でも放っておくと砂糖しか食べないので、厳しい管理が必要です。
というわけで彼女を幸せにできるのは、人生を犬に捧げたトップブリーダーだけです。みなさん頑張ってください」
ソース:【電撃PlayStation】『WHITE ALBUM2』シナリオ担当の丸戸史明氏自らヒロイン5人を紹介!
http://dengekionline.com/elem/000/000/573/573553/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) かずさのcoda2周目追加シーン
※PS3版とPSV版にはシーン回想モードが搭載されています
12/23 オリエント急行内の会話
12/24 かずさと曜子の電話(駅とホテルで2回)、春希を追いかけるかずさ
12/25 オリエント急行内の会話
1/4 旧冬馬邸(かずさに追加台詞)
1/7 かずさと曜子の会話
1/13 かずさと曜子の会話、夜に眠れないかずさ
1/15 ピアノの練習に行くかずさに追加台詞
1/17 朝の散歩(1周目で聴き取れない台詞が聴き取れるようになっている)
1/21 「ずっと、残しておきたい」を選択(かずさの独白が追加)
現在、公式サイトでソフマップ特典「WHITE ALBUM2 ピロートークCD 幸せの日~ベッドの上の物語~」が公開中。
closing chapterプレイ終了後に聴くことを推奨します。
「忠犬はご機嫌斜め」(冬馬かずさ)
http://leaf.aquaplus.co.jp/product/wa2cc/special_pt.html
かずさが弾いた曲リスト 暫定版
バッハ作曲「3声のシンフォニア第2番」ハ短調 BWV.788
ショパン作曲「練習曲黒鍵 op.10-5」(空港の次の場面)
「練習曲op.10-5」
「革命」Op.10No.12
「舟歌 嬰ヘ長調op.60」(冬馬がコンクール曲で弾いた曲)
「華麗なるワルツop.34-1」
ラヴェル作曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」(冬馬と春希の重奏)
ドビュッシー作曲「ベルガマスク組曲 第4曲パスピエ」(はじめての「WHITE ALBUM」合奏の直前)
「ピアノのために トッカータ」(冬馬がノートを取り上げられそうになり飛び出した次の場面)
ベートーヴェン作曲「ピアノソナタ第32番 第1楽章」(第二音楽室の主を探す場面。)
「ピアノソナタ第23番「熱情」 第3楽章」(冬馬と春希が職員室で説教された次の場面)
「ピアノソナタ第5番 ハ短調 作品10 第1楽章」(コンクールの場面で使用されている)
ヘンデル作曲「lascia ch'io pianga」(元はアリアだがピアノにアレンジされている)
フォーレ作曲「夢のあとに」(学園祭ライブの終わった後の場面。元は歌曲だがピアノにアレンジされている)
リスト作曲「愛の夢 第3番」(旅行に行く直前)
「仰げば尊し」 ★WHITE ALBUM2 ミニアフターストーリー
Windows用ADVゲーム『WHITE ALBUM2 ミニアフターストーリー』(丸戸史明書き下ろし)を応募者全員にプレゼント。
収録内容は下記の2本となり、ゲーム版のアフターストーリーをプレイできます。
小木曽雪菜ミニアフターストーリー
冬馬かずさミニアフターストーリー
(応募は2014年11月末に締め切られました)
http://leaf.aquaplus.jp/product/wa2cc/special.html#i2014-01-24
Coda
ショパン/ポロネーズ第6番「英雄」変イ長調Op.53
リスト/愛の夢 第3番
ヴェルディ/歌劇「椿姫」より「乾杯の歌」
ショパン/即興曲「幻想即興曲」嬰ハ長調Op.66
チャイコフスキー/バレエ「くるみ割り人形」より「あし笛の踊り」
チャイコフスキー/バレエ「くるみ割り人形」より「トレパック」
ショパン/ポロネーズ第15番「別れ」変ロ短調
リスト/パガニーニによる超絶技巧練習曲集 第3番「ラ・カンパネラ」嬰ト長調
シューマン/ピアノソナタ 第2番 ト短調 第1~第4楽章
ショパン/24のプレリュードOp.28ハ長調 (時の魔法イントロ)
以降コンサート
ポロネーズ第15番「別れ」変ロ短調が1曲目と2曲目
ラ・カンパネラが3曲目
ピアノソナタ 第2番 ト短調 第1~第4楽章が4曲目。 最新?追加情報
WHITE ALBUM 2 SPECIAL ENCORE 再会と贖罪のニューイヤー 生アフレコドラマCD
(コンサートif。vita特典の映像で見るか、ドラマCDを高値で買うかしかないかも)
WA2novel2届かない恋、届いた(丸戸短編小説。公式HPでダウンロード)
SETSUNA MCディスク (手に入りにくい幻のCD?)
WHITE ALBUM 2 ノベライズ 雪が紡ぐ旋律 6巻 巻末書き下ろし短編(丸戸短編小説。かずさT後の2人の話)
WHITE ALBUM2 ミニアフターストーリー(かずさT後の2人の話) ←NEW!
SSについて
WHITE ALBUM2 SS まとめwiki (簡易ブログ・ツイッターまとめなども)
http://seesaawiki.jp/white_album2_ss/
今のところ
SS職人ができる対応
・ろだに上げてリンク貼る
・コテハン付ける
読みたくない人ができる対応
・スルー
「かずさ好きで集まるこのスレの住人に読んでもらいたい!」
という職人側の気持ちもあると思うの。できればそれは、尊重したいな。
元をただせばここにいるのは、かずさ好きで集まった住人だし。
それに、今までの作品の次回作を楽しみにしてる人もいるだろうしね。
互いにちょっとづつ気配りして、同居する形でいければベストだと思うんだ
避難所
【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 避難所
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/game/59384/1446135555/
関連スレ
WHITE ALBUM 2 *157 [無断転載禁止]©bbspink.com
http://nasu.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1452148841/
【WHITE ALBUM2】 北原春希スレ 2
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1352121979/
【WHITE ALBUM2】杉浦小春スレ 3年参り [無断転載禁止]©bbspink.com
http://nasu.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1450550138/
【WHITE ALBUM2】和泉千晶スレ ネコ2匹目
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1338829309/
【WHITE ALBUM2】 最強OL 風岡麻理スレ ピル2錠目
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1333452576/
【WHITE ALBUM2】 友近 浩樹 スレ 2人目
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1328941153/
【WHITE ALBUM2】水沢依緒
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1326017951/
【WHITE ALBUM2】柳原 朋スレ [Leaf・Key板]
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1326881733/
【WHITE ALBUM2】 亜子・小百合・矢田 三人娘スレ
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1326879965/ >>1 乙
『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」
「いいえ…」
春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。
「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」
「はい…」
誰にも相談できない。特にかずさには…
◆◆
「ただいま」
「遅いぞ、春希」
玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。
「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」
気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。
医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」
しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」
かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。
眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。
ベッドを一つにするんじゃなかった…
逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。
玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。
子供がいなくて良かったと心底思った。
吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
まずい
だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。
紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。
「何をしてるんだ? 早くしろよ」
急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。
居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。
居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。 かずさ派は自分の悪行忘れることに定評ある食糞駄犬だから、忘れないよう再貼りしておいてやんよ
330 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:29:32.10 ID:tFeStDMd0
コピペ野郎から必死に逃げようと無理に話題振ってお前らかなり痛いというかわざとらしいなw
その努力は感服ものだよ…
まあそろそろここで全ての思惑を伝えよう
331 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:38:26.28 ID:tFeStDMd0
SSをコピペしまくったのは俺だよでもそれはいつまでたっても糞SS野郎がSS投下を止めないから
このスレじゃなくて本スレや雪菜スレも荒らせば糞SS野郎もSSの投下を止めると思ったからだ
実際のところ糞SSの投下は無くなっただろ
ほかにも愉快犯がいたみたいだけど7割くらいは俺だよ
素直にかずさファンには謝罪をしておくよ悪かった
332 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:47:02.26 ID:tFeStDMd0
雪菜スレを荒らしたのはあちらの住民には悪いがSS投下を止めさせる意図もあった
でも純粋に雪菜が大嫌いなのもあったから
そうまさに一石二鳥作戦だったんだよ雪菜ファンには申し訳ないが人柱だな
俺もかずさファンだし糞SS野郎がいつまでも駄文を投下してスレ妨害するのが我慢ならなかった 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 ・意地の悪い指揮者と商談中
指揮者「ふむ。それはいいがミスター北原、私の問いには答えてくれていないようだが?」
春希「あ、はい。その件については…自分には少し専門的すぎてお答えしかねます」
指揮者「ほう。素晴らしい。私は冬馬かずさのマネージャーと話をする予定だったのだが、どうやら間違えてコメディアンと話し込んでしまったようだ。すまないがマネージャーを呼んできてくれるかい?」
春希「…フランツさん。私が冬馬かずさのマネージャーです」
指揮者「なんと!? いやはや。コメディアン呼ばわりしてすまなかったな。君はコメディアンよりずっと愉快だよ。
しかし、冬馬曜子オフィスがうらやましいな。音楽家崩れの未成年も雇わず、君のような素晴らしくユーモア溢れる人材を抜擢する余裕があるなんてね」
春希「あの、フランツさん。仕事の話を進めませんか?」
指揮者「残念ながら君と話してるほど長い休暇は取れそうもない。冬馬かずさに来てもらえるかな?」
春希「残念ですが、かずさと直接の交渉はお断りしております。特にあなたのような方とはゴメンだと、かずさからも言われております」
指揮者「そうか。全く、冬馬かずさも幸運な女性だな」
春希「何か?」
指揮者「君という男を選んだばかりに母親のようなピアニストにならずに済んだのだからね」
春希「…それはどういう意味ですか!?」
指揮者「なに。親子で好みが違う事は珍しくない。冬馬曜子は自分を頂点に導く男を好むが、冬馬かずさはその性癖を受け継がなかっただけだろう」
春希「…あなたとはこれ以上話にならないようですね。失礼します」
指揮者「君は君の幸運さを知った方がいい。頂点に立ちたいと思わないピアニストにとって君は最適のパートナーだよ」
春希「くっ…」 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ・ワルシャワ
中年男「なるほど、パスポートそのものの再発行には一旦帰国しなければならないわけか。それは仕方ないね」
春希「ええ、写真付きの身分証が一つも無ければ海外でのパスポート再発行は原則できないということで…」
中年男「そうか。航空機のチケット代くらいなんて事ない。遠慮しないでくれ」
春希「すいません…何から何まで…」
中年男「…その代わり一つ頼まれてくれるかな?」
春希「はい?」
中年男「実は、私も日本に行くことになったんだ。正直なところ、君の事がキッカケで曜子さんや他の日本の方と話ができてね。商談とちょっとしたコンサートで2週間ほど滞在する」
春希「そうなんですか」
中年男「そこで、君にも来てもらえるかな? 日本人の知り合いがいると心強い」
春希「え、ええと」
中年男「行き帰りの空港から空港までと、滞在間2、3日ほど東京で手伝って欲しい日があるが、簡単な会話や案内だけ、他の日は自由だ。それで貸し借り無しにして、少し報酬も出そう」
春希「(どうせ再発行で10日間は日本でかかるし、これは良い話だけど…)すいません。本当にいいんですか?」
中年男「良いもなにもこれはお願いだよ。ポーランド語とドイツ語しかできない私には、君みたいな人がいるだけで大変ありがたい」
春希「(少しでも損失軽くしないとな)わかりました。やらせて下さい」
・国際電話
かずさ「ずいぶん長くかかるんだな。普段の行いが悪いからだな」
春希「(日本に一時帰国する話は隠しておこう…)ごめん。どちらにせよ再発行までウィーンに戻れないから、あのポーランドの人の所で帰りの交通稼ぎに簡単なアルバイトして帰るよ」
かずさ「仕事熱心は結構だが、早く帰って来いよ」
春希「ああ。かなり長く家を空けるけど大丈夫か?」
かずさ「洗濯物と食器がたまっている」
春希「できるだけ節約して耐えてくれ。水仕事なんてして手を痛めるんじゃないぞ」
かずさ「洗濯機は全自動だし、コンサートがある訳じゃないからそこまで神経質になることもないんじゃ…」
春希「前に部屋を泡だらけにしたろ?」
かずさ「はいはい。春希の仕事は残しておくよ」
春希「悪いな。頼むよ」
かずさ「ああ…」 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 かずさ派は自分の悪行忘れることに定評ある食糞駄犬だから、忘れないよう再貼りしておいてやんよ
330 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:29:32.10 ID:tFeStDMd0
コピペ野郎から必死に逃げようと無理に話題振ってお前らかなり痛いというかわざとらしいなw
その努力は感服ものだよ…
まあそろそろここで全ての思惑を伝えよう
331 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:38:26.28 ID:tFeStDMd0
SSをコピペしまくったのは俺だよでもそれはいつまでたっても糞SS野郎がSS投下を止めないから
このスレじゃなくて本スレや雪菜スレも荒らせば糞SS野郎もSSの投下を止めると思ったからだ
実際のところ糞SSの投下は無くなっただろ
ほかにも愉快犯がいたみたいだけど7割くらいは俺だよ
素直にかずさファンには謝罪をしておくよ悪かった
332 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:47:02.26 ID:tFeStDMd0
雪菜スレを荒らしたのはあちらの住民には悪いがSS投下を止めさせる意図もあった
でも純粋に雪菜が大嫌いなのもあったから
そうまさに一石二鳥作戦だったんだよ雪菜ファンには申し訳ないが人柱だな
俺もかずさファンだし糞SS野郎がいつまでも駄文を投下してスレ妨害するのが我慢ならなかった
616 名前:名無しさんだよもん[sage] 投稿日:2015/04/02(木) 11:56:00.15 ID:95jiF43J0 [1/6]
自己中駄犬のかずさは保健所送りが妥当だな
雪菜を傷つけ友情や社会人としての責任も捨てた糞春希も保健所で安楽死だな
このスレのかずさ信者も保健所送りだな
ま雪菜の優しさ家庭の温かさエロさを理解できない時点でお前らも駄犬だな
恥ずかしくねーの?
617 名前:名無しさんだよもん[sage] 投稿日:2015/04/02(木) 12:17:45.08 ID:95jiF43J0 [2/6]
雪菜スレ出張してきてこんな書込みしてるお前も恥ずかしくねーの?
とかの返しか出来ないんだろうな駄犬信者はw
駄犬かずさの餌は味噌汁ぶっかけメシで上等だなw
駄犬!駄犬!駄犬!のかずさエンディングも雪菜に取られてんのw
長いことプレイしてエピローグで雪菜が最後だった上の馬鹿もアホだなw
大団円を最後にプレイしない時点で駄犬の飼い主だなw
680 名前:名無しさんだよもん[sage] 投稿日:2015/04/07(火) 10:55:02.71 ID:AWtkGK8I0 [5/6]
駄犬信者で狂犬病野郎どもは雪菜スレを荒らしに来る根性もなし!
アンチスレがあると露骨に書き込みが減るしw
まさに負け犬で狂犬病w
雪菜様スレを荒らしに来いとか煽ってるんじゃねーぞ勘違いすんじゃねーぞ!
崇高で気高き聖母雪菜スレに狂犬病共が来るのは許されないんだよ!
雪菜アンチの書き込みがしてーなら本スレ行けよアホ共!
お前らみてーな童貞ヒキニートにそんな根性ないだろうがなw
分かったのかよコラ! 以下、最初の部分はペルシャ語に翻訳してお楽しみください。
—冬馬曜子オフィス 欧州支部—
—時刻 19:47
春希 「…ですから、会場の手配、支払い等も含めて、必要経費は全てそちらでみていただけるというお話だったでしょう。最初の打ち合わせの際にもきっちりと確認させていただきましたし、契約書に添付されている実施計画書にも
明記されています。そもそも今回のコンサートはそちらからのごり押しが発端で、はっきりいって、弊社にも、弊社のタレントにおいてもうまみは多くないものなんですが?」
春希 「…ええ、結構ですよ。こんな初歩的な意思疎通も図れないようでは、弊社としては手を引かざるをえません。…弊社のタレントは、近々ロシアでの権威あるコンクールに出場し、少なくとも、入賞することを確信しております。
そうなれば、今回の件はますます無用、御社との関係も、はっきりいって不要ですので。…ではもう、よろしいですか?」
春希 「…ああ、そうですか。それでは、計画書通り進めるということでよろしいですね?…ええ、ええ。了解しました。それでは、コンサートに向け、万全の準備をお願いします。…ああ、後、今回の件で、弊社としては
御社に対して不信を抱かざるを得ません。実施準備について、今週末に報告書の提出を求めます。また、会場の設営に入った時点で、私自らが現場に入ります。そこで、ひとつでも弊社のタレントがコンサートを行うに
ふさわしくないと判断される要素があれば直ちに指摘させていただきますし、それが改善されないようであればその時点で手を引かせていただきます。もちろん、一切の保障は行いません。…それで、よろしいですね?」 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて かずさの怒声が、徐々に涙声まじりに変わってくる。
…仕事と恋愛、って昔からあるタームだけど。ここまで極端なのは、なあ。
確かに約束したよ?
「毎日、かずさの練習が終わるころの、20:00までには家に帰る。どうしても駄目なときは、必ず事前に連絡する」って。
でもお前…、たった数分も、待てないのかよ。
…喜んでる俺が、いっていいことじゃない、けど、な。
春希 「悪かった。本当に悪かった。いますぐ帰るから、な?」
かずさ 「…今から帰ったって、後、数十分はかかるじゃないか…。なんでそんなに待たされなきゃいけないんだ…。
20:00までに帰るって、絶対帰る、って約束、したのに…」
俺は、約束の内容が飛躍していることに苦笑する。
春希 「超特急で!超特急で帰るから!」
かずさ 「…やだ。待てない。あたしもそっち行く。どっか途中で落ち合って
春希 「馬鹿。そんなことしなくていい。約束破ったのは俺の方なんだから、お前は待っててくれればいいんだよ」
かずさ 「馬鹿はおまえの方だ。約束なんて、今日は、今は、どうだって、いい。…早く、早く会いたい、会いたいんだよ、春希」
春希 「…かずさ。ごめん、本当にごめん。でも待っててくれよ。今日はもうタクシーで帰るからさ。
…その間もずっと、お前の声を、聞いてるからさ」
かずさ 「…はるきぃ」
必要最小限の帰り支度を最速で済ませ、俺は事務所を出る。
かずさ 「…はるき」
春希 「…なんだ?かずさ」
かずさ 「…ごめんな」
春希 「何を謝ってんだよ。約束を破ったのは俺のほうだろ?」
かずさ 「…ほんとはさ、わかってるんだ。わかってるんだよ。おまえがさ、あたしのために頑張ってくれてるって」
春希 「…かずさ」
かずさ 「…でもさ、やっぱり駄目なんだよ、あたし。駄目なときがあるんだよ。お前があたしのこと愛してるって。あたしだけのこと、愛してるって信じられても、駄目なものは駄目なんだ。駄目なときは、もっと駄目なんだ。
…お前がそばにいてくれなきゃ、駄目、なんだよ」
春希 「…なんか、あったのか?」
かずさ 「…ううん、何もない。朝、お前の胸の中で目覚めて、お前と一緒に朝ごはん食べて、お前とキスして別れて、ピアノに向かってお前のこと考えて…
それだけ、それだけの、幸せな、一日だった」
…昼飯はどうした、って突っ込みたいところだったけど。他にも色々と言いたいことはあったけど。
俺の胸が満たされていることが、一番駄目なところだったから、何も言えなかった。
かずさ 「…お前が、約束を破ったこと、以外は」
春希 「…」
かずさ 「…春希ぃ、はるきぃ、はやく、はやく、あいたい、よお」
春希 「…ああ」
タクシーを呼びとめ、乗り込む。行き先を告げる。
熾火はもう、燃え盛っている。…十数分ほど、かずさに遅れをとって。
かずさ 「…春希ぃ、あたしを、不安にさせないでくれよ…」
春希 「…かずさ、…かずさ、ごめんな?」
かずさ 「信じてても、不安なんだよ…。一度それが出てきたら、もう駄目なんだよ…」
春希 「…今日は、いつもより、キスしよう?抱きしめあおう?」
かずさ 「…うん、…うん。」
春希 「…かずさ、俺も会いたい。お前に会いたい。いますぐに会いたい、よ」
かずさ 「…春希ぃ、…遅い、よ」
春希 「…そうだな。いつだって俺は、遅いよな」
かずさ 「…そうだよ、いつまでだって、春希は、足りない、足りないんだよ。全然、足りない」 開桜社NY支社にほど近いマンションの一室。
さすがマンハッタンにあるということもあって家賃が高い。
しかし、通勤時間を考えると会社に近いほうが便利ということもあって
小さいながらもマンハッタンに居を構えている。
その辺は、居住者たちの性格が反映されていた。
夕食というには、まだ早い時間。
しかし、朝食をとった時間を考えれば、・・・・・・、というか、
昼食をとった時間を考えれば、ほどよい時間といえる。
日本であっても、NYであっても、決まった時間に食事を取れることなんかない。
春希「麻理さん。もう少しで食事の準備ができますから、食器用意してもらえます?」
麻理「あぁわかった。こっちもきりがいいから、
・・・・って、もう少し待ってくれる?」
春希「いいですよ。そっちやっちゃってください。
食事の準備できましたら、呼びますから。」 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 ・クラクフ
春希「そんな訳で、ウィーンから離れても仕事がなかなか軌道に戻らなくて困ってます。西側ではもう仕事もらえないですし、東側でも続かないので苦しいです」
中年男「私もあちこち回ってるが、悪い噂が酷いな。曜子さんもやり方がやり方だったから恨みを持っていた者も多いしな」
・イタリア
評論家「なんだか今一瞬、耳鳴りがしたわね」
その友人「誰かが君の悪い噂をしているに違いないな」
評論家「なら、トウマの親子が一生耳鳴りに苦しむようにしてやらないとね」
友人「君も人が悪いね。ちょっと記事潰されたくらいで」
評論家「オトコに手を回されて、じゃなかったらここまで恨みはしないわよ!」
友人「おーこわ」
・再びクラクフ
春希「そういう訳でほとんど開店休業状態です。あまり営業に精を出しても通信費交通費で足が出るので」
中年男「そういう状態なら師事先探すのもままならないか。厳しいな」
春希「あの。すいません」
中年男「何だね?」
春希「あなたも若い折、苦労されたと聞いています。何かアドバイスを頂けたらと」
中年男「何かと言われてもな。確かに私も長い間苦労した。コンサートなんてなかなかありつけなくて、師事先への謝礼も滞りがちだったね。その…曜子さんからの支援とかでなんとかしのいでいた」
春希「(形は違えど自分たちと同じか…)」
中年男「あとは、金にはならなくてもとにかくどんな事でもやったな。子供相手の先生から老人会の慰問、さらには路上弾きまで。
これも曜子さんの勧めだったんだが…おかげで独りよがりな自分の演奏を見直すきっかけになったかな。
恥ずかしながら私も昔、曜子さんに『観客はあなたの腕自慢見に来た訳じゃない』なんて言われていてね。芸術家なんて世界狭いから、気をつけてないとすぐに視野の狭い独りよがりに陥る。
世界の多くの演奏家が、いや、巨匠と言われるような人間ほど自分より若い人間のレッスンを盛んに受けたりしているのもそのためだな。最新の流行や理論も貴重だが、俗に言う『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』だ」
春希「 『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』? 」
中年男「そうだ。音楽も想像からの産物だから、最初は狭い密室での想像から生まれる。芸術にはそういう閉じた世界が必要だ。しかし、それを演奏するとなると今度は相手の要る技術になる。そこには開いた世界が必要だ。
つまり…仕事がないからと引きこもっているのは演奏家には良くない。どんな仕事でも、仕事以外の理由でも良いから外に出してあげないと、とは思うね」
春希「……」
中年男「まあ、私もまだ修行の途上のヒヨッコだ。参考になったら嬉しいがね」
春希「いえ。どうもありがとうございました」 以下、最初の部分はベトナム語に翻訳してお楽しみください。
—冬馬曜子オフィス 欧州支部—
—時刻 19:47
春希 「…ですから、会場の手配、支払い等も含めて、必要経費は全てそちらでみていただけるというお話だったでしょう。最初の打ち合わせの際にもきっちりと確認させていただきましたし、契約書に添付されている実施計画書にも
明記されています。そもそも今回のコンサートはそちらからのごり押しが発端で、はっきりいって、弊社にも、弊社のタレントにおいてもうまみは多くないものなんですが?」
春希 「…ええ、結構ですよ。こんな初歩的な意思疎通も図れないようでは、弊社としては手を引かざるをえません。…弊社のタレントは、近々ロシアでの権威あるコンクールに出場し、少なくとも、入賞することを確信しております。
そうなれば、今回の件はますます無用、御社との関係も、はっきりいって不要ですので。…ではもう、よろしいですか?」
春希 「…ああ、そうですか。それでは、計画書通り進めるということでよろしいですね?…ええ、ええ。了解しました。それでは、コンサートに向け、万全の準備をお願いします。…ああ、後、今回の件で、弊社としては
御社に対して不信を抱かざるを得ません。実施準備について、今週末に報告書の提出を求めます。また、会場の設営に入った時点で、私自らが現場に入ります。そこで、ひとつでも弊社のタレントがコンサートを行うに
ふさわしくないと判断される要素があれば直ちに指摘させていただきますし、それが改善されないようであればその時点で手を引かせていただきます。もちろん、一切の保障は行いません。…それで、よろしいですね?」 あたしの幸せは、お前がいてくれることなんだよ」
「かずさ……」
「こうしてお前に抱かれて、お前の温もりを感じることができる、今が」
……そう、あたしは幸せだ。
だって、お前を愛してるから。お前に愛されてるから。
本当に、他には何にもいらない。お前が側にいてくれれば。
……それが、人の道から外れていようとも。
誰からも認められなくとも。
どれほどの犠牲を払ってでも。
……あいつを、裏切って手にした幸せでも。
そのことが、春希を一生苦しめることになろうとも。
この幸せだけは、絶対に離さない。
春希「妻……家族、か。俺になれるか分からないけど。でも……」
家庭を作るなら、小木曽家みたいな幸せな家族になりたい。小さな幸せを大切にできる、そんな家族に。
?「なれるよ、春希くんなら」
春希「雪菜?」
雪菜「うん、わたしが保証するよ。春希くんならなれる」
春希「……ありがとう。テキトーな言葉でも嬉しいよ」
雪菜「テキトーじゃないよ? 当ててあげよっか、春希くんが何考えてたのか」
春希「間違ってたらオシオキだからな?」
雪菜「えっ!?
…………、あ〜、うん。やっぱり分からないなぁ! わたしエスパーじゃないもん。
あぁ〜、怖いなぁっ! どんなオシオキされちゃうんだろうっ」
春希「楽しみにしてんじゃねえよ! かずさと遊んでろ!」
雪菜「あぁん春希くんがいじめる〜! かずさぁ〜!」
……全く。可愛いすぎるんだよちくしょうっ! 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ゲス度ランキング
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2.諏訪
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載ってない人はゲスくないってことで ・病院
小男「倒れたって聞いたけど、大丈夫そうだね」
曜子「日本に来てたのね。よくもぬけぬけと私の前に顔が出せたモノね」
小男「ボク、何か悪いコトした?」
曜子「あなたがかずさにちょっとでも期待してるフリしてくれれば、あんな陰険なマネかます連中も出なかったでしょうよ」
小男「ボクはむしろキミこそ何やってんだと思ってたケドね」
曜子「何よ。こっちはこのとおり、仕方なかったのよ」
小男「そうかい? じゃあ聞くけど、キミは彼女たちにどうあって欲しいと願っていたんだい?」
曜子「どうって?」
小男「ボクがキミならドンとデカい公演や共演かまして、フランスのおばちゃんあたり師匠につけてメキメキ経験と力つけさせて世界に通用するコに育てるケドね」
曜子「あの子たちに好きにやらせたいだけよ」
小男「キミがそうして甘やかしてるから、あの子たちもあんなんなんだよ。きっと今回の件も『ほとぼり冷めるまでじっと休めばいいや』程度にしか考えてないでしょ。あの子たち」
曜子「調子出ないうちくらいスネかじりしてくれる方が親としてはありがたいけど」
小男「金コネ出して口出さない、期待のプレッシャーもかけず甘やかしてたら金の卵も腐るよ」
曜子「それはそれであの子たちの選択でしょ。結構な人生じゃないのよ」
小男「むしろあの子たち、日本に名前流れない方がいいとさえ思ってるよね。
ボクが言うのも何だけど、何しにウィーンに来たのと聞きたくなるよ。ちょっとキミの言うこと聞かせて軽く育てればすぐ日本でも名前が響く子になれるのに、まるでそうなるのを避けているみたい。
この狭いクラシックの世界で、ワザと名前が漢字にならないよう、日本人の誰かの目に入るのを避ける為にウィーンに逃げてきたみたい」
曜子「何よ。男女関係のトラブルってコトは知ってるくせに」
小男「相手の子の事なんて知らないケド、その子の前を横切り、名前が彼女の目に入るのを避けるために日本を離れウィーンに来としたら、なんて馬鹿げた話だろうと思うケドね。
あの子ならマトモに活動するだけですぐ『日本人ピアニスト』として有名になっちゃうんだから。むしろ、そうなるのを避けるためにあの旦那さんと食っちゃ寝生活してるみたい」
曜子「まだ、マトモに活動初めて何年もしないじゃない。そのうち育ってくれればいいわよ」
小男「キミはいったい、彼女たちにどうあって欲しいんだい?
狭い鳥の巣の中で、他のヒナが飛ぶためにエサの奪い合いしてる中、飛ぼうとせず巣の中で温まってるヒナなんて、遅かれ早かれ他のヒナにつつき殺されるよ。親鳥が見てたり、他のヒナと羽並べない限りね。
昔はもっとひどかった。東洋人なんて頭の黒い音楽家はそれだけでつつかれた。キミもボクもそうだったように。だから、互いに羽並べ友誼むすんでいた」
曜子「だから?」
小男「ボクはキミにどうしたいと聞きに来たんだけどね。今回の件は流石にヤツらもやり過ぎだと思うし、日本人が悪し様に貶められるのも腹立つから、今回だけなら介入してもいいかなとは思ってるケド? その代わり、ボクの好きなように介入させてもらうケド」
曜子「あなたなんかの手を借りなくてもあの子たちは何とかするわよ。もともと世界に羽ばたくなんて大それた目的持ってるわけでもないし」
小男「もうわかったよ。それじゃ、父親の方の意見を聞きに行こう」
曜子「!! それは止めて!」
小男「キミの娘だけど、キミだけの娘じゃない。ジョバンニ4位なんて本当なら誰だって親代わりになって自分の手元で育てたいコなんだよ。あの旦那さんじゃなければね」
曜子「あの2人の仲を裂いたら八つ裂きにするわよ」
小男「それはしない。ただ、あの男の話を聞きに行くだけだよ」
曜子「やめて。まだ、あの人は知らないのよ!?」
小男「知らないってコトは本当に厄介だね。彼の意見がキミと同意見であるといいけどね。じゃあね」
曜子「二度と来るな!」
曜子「かずさ。私は自分に歩めなかった道をあなたに歩ませたがっているだけかもしれないけど、でも、それでもあなたを愛しているのよ・・・」 あのね何故こんなことをするかというとだね
お前らが散々雪菜スレを荒らし消滅させたからだ!
荒らしを中止してほしかったらすぐ立てろヴォケ
まー類似犯や愉快犯、SS制作人が同じようなことをまた繰り返すかも分からんがな
・ウィーンの街中
日本人観光客男「えくすきゅーず、みー。どぅー、ゆーのう…」
日本人観光客女「困ったね。英語通じないね」
春希「(あれは観光客か。かずさ以外から日本語を聞くのも久々だな。助けてやるか)こんにちは。何かお困りですか?」
男「おお! 日本人ですか? 助かります」
男「ありがとうございました。助かりました。私はこれこれこういう者です」
春希「そうですか。俺は、…。ところで、『冬馬かずさ』という名前をご存知ですか?」
男「いえ」
女「(スマホをいじりつつ)あっ。ピアニストの人ですね。数年前、前回のジョバンニで賞を取った」
春希「そうですそうです。自分はその冬馬かずさのマネージャーなんですよ」
女「そうなんですか。あら、アナタ音楽関係者なのに気づいてあげなくちゃダメじゃないですか」
男「お前だってマスコミのくせに…どうも失礼しました。また機会がありましたら公演に伺わせていただきます」
春希「いえいえ。あいにくウィーンでは予定はないですが、ヨーロッパ各地で公演していますので機会があればぜひどうぞ」
男「どうも。今日はありがとうございました」
男「ちょっと自慢入ってたけど良い人だったね。助かったね。ウィーンで頑張ってる日本人もいるんだね」
女「ええ。そうみたいね。でも…(スマホをいじりつつ)あのピアニストで検索で引っかかるのは、英語でも日本語でも悪い噂や酷評記事へのリンクばかりなのよね。なんだか、誰かマスコミ関係者が裏から執拗に評判を落としているみたいな…」
男「なんだそれ?」
・日本
朋「くしゅん!」 冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 かずさ 「…なんだ、春希、眠いのか?」
春希 「…ああ、少し」
かずさ 「…心配すんな。またうなされてたら、あたしがなぐさめてやる。お前の苦しみを、あたしが舐めとってやる。
…で、またお前が雪菜の名前を口に出したら、思い切り、噛み付いてやるから」
春希 「…最後のは、勘弁してくれないかな」
かずさ 「…馬鹿いうな。それで許してやるなんて、こんな心の広い女、世界であたしくらいだぞ?」
春希 「…そうかもな。…ごめんな」
かずさ 「…あやまるな。…ばか」
ウィーンは、もう、あと少し。かずさの国まで、あと、少し。
春希 「…なあ、かずさ」
かずさ 「…なんだ」
春希 「…俺も、そうなんだけどさ。やっぱりお前、駄目な女だよな」
かずさ 「…え」
春希 「…おまえのせいで俺、どんどん駄目になっていくよ」
かずさ 「は、るき?なん、で、なんでそんなこというんだよ」
春希 「…ちゃんとさ、我慢しようと思ってたんだけどな」
かずさ 「なに、を、なにをいってるんだ?春希、なあ!」
春希 「…でも、やっぱ無理みたいだ」
かずさ 「…やめろよ、やめてよ」
春希 「…なあ、かずさ」
かずさ 「!やめろっていって
春希 「…俺、今夜、お前を抱きたい」 かずさ 「…へ?!は?!え?」
春希 「…だめか?」
かずさ 「え、いや、お、お前、な、なにいって」
春希 「…だめ、か?」
かずさ 「だ!だめ、とかそういうことじゃなくて、だな、お、お前、そんな」
春希 「…だめ、か…」
かずさ 「!だめなわけないだろ、ばか!…う、いや、その…」
春希 「…いいのか?」
かずさ 「…な、んで、あたしが、断るんだよ。あたし、だって、あたしだって、ずっと、ずっと…」
春希 「…お前のせい、なんだからな?」
かずさ 「…なにが、だよ」
春希 「お前が、そんなにも、可愛過ぎるからいけないんだ」
かずさ 「〜〜〜!」
春希 「…わかってるんだよ。わかってたんだ。一度破ってしまえば、歯止めが利かなくなるって。
だから、必死で我慢してたのに」
かずさ 「…」
春希 「…もちろん、けじめはつける。お前を護るために、俺はいるんだから。でも、それまでは…」
かずさ 「は、るき」
春希 「…お前を、ぐちゃぐちゃにしてやる」
かずさ 「っ!!!!」
もうすぐ、機は着陸態勢に入る。…依然、乱気流のまま。 長い話投稿する奴が鬱陶しいからって
他のスレにまで転載して迷惑かけた挙げ句それで勝利宣言まですれば
これくらいの粘着呼び込む事になることくらいわかりきった事
かずさ派の連中には全く同情できんな
むしろ愉快犯の連中もっとやれば? かずさの怒声が、徐々に涙声まじりに変わってくる。
…仕事と恋愛、って昔からあるタームだけど。ここまで極端なのは、なあ。
確かに約束したよ?
「毎日、かずさの練習が終わるころの、20:00までには家に帰る。どうしても駄目なときは、必ず事前に連絡する」って。
でもお前…、たった数分も、待てないのかよ。
…喜んでる俺が、いっていいことじゃない、けど、な。
春希 「悪かった。本当に悪かった。いますぐ帰るから、な?」
かずさ 「…今から帰ったって、後、数十分はかかるじゃないか…。なんでそんなに待たされなきゃいけないんだ…。
20:00までに帰るって、絶対帰る、って約束、したのに…」
俺は、約束の内容が飛躍していることに苦笑する。
春希 「超特急で!超特急で帰るから!」
かずさ 「…やだ。待てない。あたしもそっち行く。どっか途中で落ち合って
春希 「馬鹿。そんなことしなくていい。約束破ったのは俺の方なんだから、お前は待っててくれればいいんだよ」
かずさ 「馬鹿はおまえの方だ。約束なんて、今日は、今は、どうだって、いい。…早く、早く会いたい、会いたいんだよ、春希」
春希 「…かずさ。ごめん、本当にごめん。でも待っててくれよ。今日はもうタクシーで帰るからさ。
…その間もずっと、お前の声を、聞いてるからさ」
かずさ 「…はるきぃ」
必要最小限の帰り支度を最速で済ませ、俺は事務所を出る。
かずさ 「…はるき」
春希 「…なんだ?かずさ」
かずさ 「…ごめんな」
春希 「何を謝ってんだよ。約束を破ったのは俺のほうだろ?」
かずさ 「…ほんとはさ、わかってるんだ。わかってるんだよ。おまえがさ、あたしのために頑張ってくれてるって」
春希 「…かずさ」
かずさ 「…でもさ、やっぱり駄目なんだよ、あたし。駄目なときがあるんだよ。お前があたしのこと愛してるって。あたしだけのこと、愛してるって信じられても、駄目なものは駄目なんだ。駄目なときは、もっと駄目なんだ。
…お前がそばにいてくれなきゃ、駄目、なんだよ」
春希 「…なんか、あったのか?」
かずさ 「…ううん、何もない。朝、お前の胸の中で目覚めて、お前と一緒に朝ごはん食べて、お前とキスして別れて、ピアノに向かってお前のこと考えて…
それだけ、それだけの、幸せな、一日だった」
…昼飯はどうした、って突っ込みたいところだったけど。他にも色々と言いたいことはあったけど。
俺の胸が満たされていることが、一番駄目なところだったから、何も言えなかった。
かずさ 「…お前が、約束を破ったこと、以外は」
春希 「…」
かずさ 「…春希ぃ、はるきぃ、はやく、はやく、あいたい、よお」
春希 「…ああ」
タクシーを呼びとめ、乗り込む。行き先を告げる。
熾火はもう、燃え盛っている。…十数分ほど、かずさに遅れをとって。
かずさ 「…春希ぃ、あたしを、不安にさせないでくれよ…」
春希 「…かずさ、…かずさ、ごめんな?」
かずさ 「信じてても、不安なんだよ…。一度それが出てきたら、もう駄目なんだよ…」
春希 「…今日は、いつもより、キスしよう?抱きしめあおう?」
かずさ 「…うん、…うん。」
春希 「…かずさ、俺も会いたい。お前に会いたい。いますぐに会いたい、よ」
かずさ 「…春希ぃ、…遅い、よ」
春希 「…そうだな。いつだって俺は、遅いよな」
かずさ 「…そうだよ、いつまでだって、春希は、足りない、足りないんだよ。全然、足りない」 ・自宅
春希「いったいどうしたっていうんだ? かずさ。危なかったぞ」
かずさ「…春希はあれが平気なのか。そうか。いいな。
あたしは勘弁だよ。あんな幸せそうな光景見るだけでイヤになる」
春希「人の結婚式なんだからどうでもいいだろ?」
かずさ「春希は平気なんだな。こないだもあたしのウェディングドレスさえ見られればどうでもよかったんだろ」
春希「ウェディングドレスさえ着られればどうでもいいって言ってたのはかずさだろ? だから曜子さんも遠慮してあんな慎ましい式にしてくれたんじゃないか」
かずさ「春希…まさか、あたしが結婚式に興味がないからそういうふうに言っていたと思ってたのか?」
春希「興味がないって…実際、嫌がっていたじゃないか」
かずさ「うう…春希だけはわかってくれていると思ったのに。あたしだって女だぞ」
春希「何だよ?」
かずさ「春希さえいれば良かったのに。傷つけた雪菜のいる日本に戻るのもイヤだったし、大きな式を挙げて騒ぐなんて、雪菜に見られるかも知れないのにそんな気分になんて到底なれなかったよ!」
春希「え?」
かずさ「雪菜の前で幸せにしてる姿を見せようなんて、そんな残酷で恥ずかしい真似なんて思いつきすらしなかったよ! あたしは雪菜に見られない国で春希と一緒にいられれば良かったんだ!」
春希「か、かずさ?」
かずさ「春希だって、呵責に耐えられないから日本を出るまであたしを抱かなかったんじゃないのか? そんな春希だからあたしの気持ちも同じだとわかっていると思ってたよ!」
春希「そ、そんなの言わないのにわかるわけないだろ!」
かずさ「夜の音楽室でもどこでも陽の当たらない所なら良かったんだ。綺麗な花も照明もお酒もご馳走も音楽も要らなかったんだ。親友を裏切っておいて他に人を集めて祝福してもらおうなんて最初からできるわけなかったんだ…」
春希「どうしてだよ! 許してもらったっていいじゃないか!」
かずさ「なんでそんなことができるんだよ! 許してもらおうなんて考えつかないよ! 謝って許してもらえるなんて思っているなら、なんで日本から出る必要があったんだよ!?」
春希「(それは…そうしたらかずさを独り占めできるから…かずさを助けるただ一人の男になれるから…)」
かずさ「春希と新しい道歩み始めた区切りをつけるために、それに、あたしだってウェディングドレスくらいは着てみたかったし、ちょっとぐらいなら雪菜に会うこともないだろうからと日本に行ったのに…」
春希「……」
かずさ「何でそこに雪菜を連れてくるんだよ! 一番いちゃいけないだろ! おかしいだろ! 許してくれるもなにも、ウェディングドレス姿で雪菜に謝れとでも言うのかよ! そんな残酷なことよくあたしに押し付けられるな!」
春希「そんな…呼んだのは曜子さんで…」
かずさ「…もういい。わかった。春希は轢き逃げした人の遺族にドクロマークのTシャツ来て謝りに行けるような男だったんだな。
いいよ。こないだも勝手に日本に帰ってたみたいだし。勝手に雪菜と仲直りしてな」
春希「こないだのはパスポートなくしたから帰っただけで、断じて雪菜には会ってない!」
かずさ「別にいいよ。春希は雪菜に会っても平気なんだろ? あたしは嫌だ。手か顔でも潰さないと雪菜に会う気になれない」
春希「……」
かずさ「もういい。今日は寝るよ。おやすみ」
春希「(どうしよう…)」 以下、最初の部分はナバホ語に翻訳してお楽しみください。
—冬馬曜子オフィス 欧州支部—
—時刻 19:47
春希 「…ですから、会場の手配、支払い等も含めて、必要経費は全てそちらでみていただけるというお話だったでしょう。最初の打ち合わせの際にもきっちりと確認させていただきましたし、契約書に添付されている実施計画書にも
明記されています。そもそも今回のコンサートはそちらからのごり押しが発端で、はっきりいって、弊社にも、弊社のタレントにおいてもうまみは多くないものなんですが?」
春希 「…ええ、結構ですよ。こんな初歩的な意思疎通も図れないようでは、弊社としては手を引かざるをえません。…弊社のタレントは、近々ロシアでの権威あるコンクールに出場し、少なくとも、入賞することを確信しております。
そうなれば、今回の件はますます無用、御社との関係も、はっきりいって不要ですので。…ではもう、よろしいですか?」
春希 「…ああ、そうですか。それでは、計画書通り進めるということでよろしいですね?…ええ、ええ。了解しました。それでは、コンサートに向け、万全の準備をお願いします。…ああ、後、今回の件で、弊社としては
御社に対して不信を抱かざるを得ません。実施準備について、今週末に報告書の提出を求めます。また、会場の設営に入った時点で、私自らが現場に入ります。そこで、ひとつでも弊社のタレントがコンサートを行うに
ふさわしくないと判断される要素があれば直ちに指摘させていただきますし、それが改善されないようであればその時点で手を引かせていただきます。もちろん、一切の保障は行いません。…それで、よろしいですね?」 「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」
「いいえ…」
春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。
「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」
「はい…」
誰にも相談できない。特にかずさには…
◆◆
「ただいま」
「遅いぞ、春希」
玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。
「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」
気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。
医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」
しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」
かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。
眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。
ベッドを一つにするんじゃなかった…
逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。
玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。
子供がいなくて良かったと心底思った。
吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
まずい
だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。
紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。
「何をしてるんだ? 早くしろよ」
急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。
居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。
居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。 泥のような眠りから醒め、カビ臭いベッドから身を起こす。
かずさはまだ豚のように惰眠を貪っているが放置。
居間に戻るとテーブルの上のカップラーメンは容器は予想以上にすえた悪臭を漂わせていた。
こみ上げてくる胃液を押さえて流しにスープだったモノを捨てる。
固まった脂の塊が流しに詰め込まれた食器の一部にこびりついた。
温水器のスイッチを入れたところで目まいに襲われた。
脳の中を這いずり回り、食い散らかす線虫のような存在を感じた。手足に力が入らない。
よろよろとベッドに戻るとすぐに意識を失った。
◆◆
「春希。とっとと起きて食器を洗ってくれよ」
ろくでもない要求で目が覚めた。
「…たまには自分で洗ってくれよ」
ため息と共に
しかし、そんな弱々しい抗議は倍返しの憂き目にあった。
「あたしの両手はピアノを弾くためにあるんだ。そもそも、台所仕事するなっていつも言っているのは春希じゃないか」
言ってもムダか。
たとえどういう風の吹き回しかでかずさが食器洗いをしてくれる気になったとしても、洗い上げられる食器より割られる食器の方が多いに違いない。
目まいのする身体を起こして寝室を出ると、ワインを飲みふけるかずさがいた。
「朝っぱらから飲むなよ」
「ティーポットも洗ってないというのに、あたしに不味い水でも飲めというのか?」
「酒まで飲まなくてもいいだろ」
「仕事でもあるというのか?」
「おあいにく様。でも、練習はしなきゃダメだろ?」
「これくらい酒が入っているくらいがちょうどいい」
「そんなんだから酔っ払って演奏しているんじゃないかとか言われるんだぞ」
「バーのピアノなんて素面で弾けるか」
「はぁ…」 かずさは血色を失いつつも舞台を凝視し続ける。板倉が時折小声で心配そうに話しかけたが、全く反応しない。
ピアノを捨てた榛名には、和希が側に残り、捨てなかった雪音には、歌だけが残される。
そうして、第2幕が終わったが、かずさは手足が震えてもはや立ち上がることすら出来きなかった。ただ、張り付けられたように幕の閉じられた舞台を見つめ続けるのみであった。
そして、最終幕。
そんな嘘に塗り固められた日々に疲れた和希がふと、榛名のピアノを聞きたいと漏らしたところから話は終盤に向かう。
ブランクとスランプに喘ぎ、自暴自棄になって和希まで拒絶して引きこもってしまった榛名。その危機を救う為に現れたのは他でもない、雪音であった。
「…何のために来た…? わたしを罵りに来たのか? それとも…憐れみに来てくれたとでも言うのか?」
雪音を拒絶する榛名。しかし、雪音は引き下がらない。
「どうしてそんなこと…そんなこと、どうして言うの…全部あなたが臆病なのが悪いんじゃない!」
ぱしっ。平手の音が響く。
「勝手な…ことを言うな…あいつの…想いも夢も、尊敬も、焦りも、嫉妬も、彼女の座もずっと独り占めしておいて…今さら被害者ですよってしゃしゃり出てくるなっ」
ぱしんっ。榛名も負けじと返す。
平手打ちとともにお互いの本音をぶつけ合い、いつしか和解する二人。
「おまじないだよ」
別れ際に雪音が榛名に渡したのは、あのコンテストの控え室で和希から受け取り、以来片時も離すことがなかった、和希との絆のギターピックだった。
「おまじないだ」
そして、和希からは、キスを
舞台にあのコンテストの日の「届かない恋」が流れ、榛名はピアノを取り戻す。しかし、それは皮肉にもあの日の3人の思い出と和希と雪音の仲まで取り戻してしまった。
二人の為に身を引く決意を固める榛名。榛名がピアノを取り戻したことを知った母親からの留学の薦めを承け、誰にも知らせずウィーンへ去ろうとする。
飛行機が起つ直前でその事を知り、空港へと向かう和希と雪音。
雪による遅延で奇跡的に3人は出会うことができた。
再会を誓い、和希と雪音は榛名を見送る。しかし、榛名はもう二人の元に戻らないと心に決めていた。
「あれ?」
「何か…ポケットに…」
「これ…和希のギターピック…」
その意味に愕然として飛行機に向かい榛名の名を叫ぶ雪音。その雪音に寄り添う和希。二人の姿を照らしていたスポットライトが徐々に絞られ、舞台は暗転し、最終幕は閉じられた。
スポットライトが最後に照らしたのは二人の繋がれた手、それは二人の未来を暗示していた。
拍手に包まれる劇場にかずさの慟哭が響き渡った。 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」 小男「倒れたって聞いたけど、大丈夫そうだね」
曜子「日本に来てたのね。よくもぬけぬけと私の前に顔が出せたモノね」
小男「ボク、何か悪いコトした?」
曜子「あなたがかずさにちょっとでも期待してるフリしてくれれば、あんな陰険なマネかます連中も出なかったでしょうよ」
小男「ボクはむしろキミこそ何やってんだと思ってたケドね」
曜子「何よ。こっちはこのとおり、仕方なかったのよ」
小男「そうかい? じゃあ聞くけど、キミは彼女たちにどうあって欲しいと願っていたんだい?」
曜子「どうって?」
小男「ボクがキミならドンとデカい公演や共演かまして、フランスのおばちゃんあたり師匠につけてメキメキ経験と力つけさせて世界に通用するコに育てるケドね」
曜子「あの子たちに好きにやらせたいだけよ」
小男「キミがそうして甘やかしてるから、あの子たちもあんなんなんだよ。きっと今回の件も『ほとぼり冷めるまでじっと休めばいいや』程度にしか考えてないでしょ。あの子たち」
曜子「調子出ないうちくらいスネかじりしてくれる方が親としてはありがたいけど」
小男「金コネ出して口出さない、期待のプレッシャーもかけず甘やかしてたら金の卵も腐るよ」
曜子「それはそれであの子たちの選択でしょ。結構な人生じゃないのよ」
小男「むしろあの子たち、日本に名前流れない方がいいとさえ思ってるよね。
ボクが言うのも何だけど、何しにウィーンに来たのと聞きたくなるよ。ちょっとキミの言うこと聞かせて軽く育てればすぐ日本でも名前が響く子になれるのに、まるでそうなるのを避けているみたい。
この狭いクラシックの世界で、ワザと名前が漢字にならないよう、日本人の誰かの目に入るのを避ける為にウィーンに逃げてきたみたい」
曜子「何よ。男女関係のトラブルってコトは知ってるくせに」
小男「相手の子の事なんて知らないケド、その子の前を横切り、名前が彼女の目に入るのを避けるために日本を離れウィーンに来としたら、なんて馬鹿げた話だろうと思うケドね。
あの子ならマトモに活動するだけですぐ『日本人ピアニスト』として有名になっちゃうんだから。むしろ、そうなるのを避けるためにあの旦那さんと食っちゃ寝生活してるみたい」
曜子「まだ、マトモに活動初めて何年もしないじゃない。そのうち育ってくれればいいわよ」
小男「キミはいったい、彼女たちにどうあって欲しいんだい?
狭い鳥の巣の中で、他のヒナが飛ぶためにエサの奪い合いしてる中、飛ぼうとせず巣の中で温まってるヒナなんて、遅かれ早かれ他のヒナにつつき殺されるよ。親鳥が見てたり、他のヒナと羽並べない限りね。
昔はもっとひどかった。東洋人なんて頭の黒い音楽家はそれだけでつつかれた。キミもボクもそうだったように。だから、互いに羽並べ友誼むすんでいた」
曜子「だから?」
小男「ボクはキミにどうしたいと聞きに来たんだけどね。今回の件は流石にヤツらもやり過ぎだと思うし、日本人が悪し様に貶められるのも腹立つから、今回だけなら介入してもいいかなとは思ってるケド? その代わり、ボクの好きなように介入させてもらうケド」
曜子「あなたなんかの手を借りなくてもあの子たちは何とかするわよ。もともと世界に羽ばたくなんて大それた目的持ってるわけでもないし」
小男「もうわかったよ。それじゃ、父親の方の意見を聞きに行こう」
曜子「!! それは止めて!」
小男「キミの娘だけど、キミだけの娘じゃない。ジョバンニ4位なんて本当なら誰だって親代わりになって自分の手元で育てたいコなんだよ。あの旦那さんじゃなければね」
曜子「あの2人の仲を裂いたら八つ裂きにするわよ」
小男「それはしない。ただ、あの男の話を聞きに行くだけだよ」
曜子「やめて。まだ、あの人は知らないのよ!?」
小男「知らないってコトは本当に厄介だね。彼の意見がキミと同意見であるといいけどね。じゃあね」
曜子「二度と来るな!」
曜子「かずさ。私は自分に歩めなかった道をあなたに歩ませたがっているだけかもしれないけど、でも、それでもあな 冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 「まぁ、それはともかくだな。場所は地中海クルーズの豪華客船の中での演奏だ。10日間で3回。仕事が終わったら、二人でバカンスを過ごそう?」
俺だって、せっかくのバカンスの時期に仕事「だけ」を考えているわけじゃない。狙える時は一石で二鳥も三鳥も取ってやる。
ああ、バイト先の出版社で みっちり仕込まれたんだもんな・・・NYに居る麻理師匠は元気でやっているだろうか。
「船の上ぇ〜!?」
かずさにしては珍しく 素っ頓狂な声を上げたので、ちょっとずっこけた。
「やっ、やだよ、船の上なんて。ピアノだってロクなものが置いてあるわけないだろ?
よっ、よくも そんなピアノをあたしに弾かせようとするな。おまえにとって、あたしのピアノはそんなものだったのか…?」
「どうした?そんなに興奮しなくても・・・」
事務所に送られてきた、この仕事の企画書に添付されていた 船の設備やらを思い出しながら話をする。
「ピアノは悪くないんじゃないかな?何かベーゼルなんとかっていうメーカーのピアノがあるって言ってる。ちゃんと調律師も同乗してるし、エアコン付のピアノ保管庫もあるって話だぞ?」
かずさのピアノの為には、そこは妥協できないもんな。
「たしか、ここウィーンのピアノメーカーって言ってなかったか?かずさは嫌いな音じゃないって…」
昔、ピアノと楽しそうに戯れるかずさが 世界のピアノメーカーや音の特徴について 話してくれたことがあったっけ。
「もちろん、船の上だからな。そんなに大きいホールじゃ無いけど、オペラハウス風の造りになっているらしい。クルーズ中のコンサートとかオペラとかを売りにしている運営会社らしく、観客は芸術にうるさいお金持ちだ。」
かずさの頭を押さえ、驚きを唇で覆い隠し。
かずさ 「んんんんん〜っ、ん…あ、ん、んく…ん、ん〜っ!」
唇を舌でなめまわし、割り開く。…かずさの動揺なんて、まるで意に介しないまま。
かずさ 「ふむぅっ?ん、んぅ…ん、んぅぅぅぅっ」
歯の裏を、上あごを、舌の届くありとあらゆる場所を舐めまわし、かずさの舌を絡めとる。
俺の唾液を、血を、かずさの中に流し込む。飲み込ませる。
かずさ 「んんぅ、ちゅぷ、ん…んぅ、はぁぁ、あむ」
…そんな、一方的で、一歩も引かない、傲慢で、いやらしい、キスをした 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」 5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて
からり、から… からり、から…
コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。
その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女—売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ—の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。
目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。
同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。
だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。
食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。
パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。
「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。
マネージャーはこれから冬馬曜子—稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長—の所に報告に向かうことになっている。
行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。
娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。
帰る、か…
かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。
母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。
そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。
ぴく…
かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」
振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。
しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…
かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。
その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 かずさはもう一度その女性の顔を見て、やっと彼女が誰であったか思い出した。
帰国して間もないころ、ピアニストかずさに「ファッションについて」というインタビューを求めてきた不躾な女性記者…確か板倉とかいう名前だった。
「なぁんだ…」
どちらかと言うとあまり会いたくない人物である。かずさは軽く肩を落とした。すぐ立ち去ろうかとも考えたが…
彼女と会った時の記憶がよみがえる。
いろいろと神経質になっていた時期にわけのわからない取材を求められ怒りを覚えたかずさは手にあったバッグを投げつけて逃げ出した。財布や携帯まで全て入ったバッグを…
何も考えず駆け出し、気がつくと迷子になってしまったかずさであったが、春希に助けられ事無きを得た。なお、投げつけたバッグはこの女性記者が律義に冬馬曜子オフィスまで届けてくれていた。
今から思い起こせば赤面ものである。しかも、その後この板倉とかいう女性記者にお礼もお詫びもしていない。
当時の自分自身はそれどころではなかったし、今からお礼なりお詫びをするとしても完全に時期を逸しているが…
「『ごめん』、くらい言っておくか」
このまま知らんふりをして帰っても同じくらい気まずい思いが残る。
ならば、また少々無遠慮な取材を食らうことになったとしても、謝意を伝えてすっきりした方がいいとかずさは考えた。
「すいません。記者の板倉さん…ですよね」
「え、…ええっ!」
話しかけられた女性記者板倉は驚き、当惑した。
なにせ目の前にいるのは冬馬かずさ。数か月前には取りつくしまもなかった人物の方から話しかけられれば面くらうのも当然だった。
かずさはかまわず、たどたどしく謝罪の言葉を口にする。
「この前はごめんなさい。いや、あの時はちょっと気が立ってたっていうか…その…」
板倉記者は困った。
相手は今をときめく話題の美人女性ピアニスト。ここは謝罪を受けつつ、うまくすり寄って取材に持ち込めたら僥倖である。
しかし今日は別の取材相手の出待ち中で、タイミングが悪かった。
『なんでこんなタイミングでこんなチャンスが…』
しかし、二兎を追う者一兎を得ず。ここは当面の取材を優先すべき。
少し待ってと板倉記者が言いかけたその時だった。
「あれ? 冬馬かずささんじゃないですか?」
そう言ってスタッフ出入り口のドアを開けて出てきたのは、板倉記者の本日の取材のターゲット。
劇団コーネックス二百三十度の新人女優、瀬ノ内晶、本名和泉千晶であった。 5/13(木)「シアターモーラス」『届かない恋』開演前
「明日の公演後このコ連れて来て。そしたら取材でも何でも応じるよ」
瀬之内晶はそう言って板倉記者にチケットを握らせると、あっという間に雑踏へ消え失せてしまった。
あとに残されたかずさと板倉記者だが、かずさのほうは呆気にとられたようすで、板倉記者が何を話しかけても生返事しか返ってこなかった。
仕方なく、明日会う約束だけしてその場は別れた板倉記者だったが、かずさが来るかは半信半疑だった。
久しぶりに会った学友?にしては様子がおかしかったが…
翌日の公演開始10分前。待ち合わせは20分前だったから、もう10分の遅刻だ。
「…また騙されたかも?」
シアターモーラスの入口で待ちつつ、そうぼやいた板倉であったが、程なく彼女は現れた。
「…やあ、板倉さん」
「はいはい、かずささんこんにちは〜。今日はお付き合いありがとうございます。いやいや、本日は僭越ながら御同席させていただきますので…」
かずさが現れた嬉しさのあまり、忽ちテンションを上げる板倉であったが、かずさはそんな板倉がまるで視界に入っていないように、
「…行くか…」
と言うと、すたすた劇場に脚を進めた。
訝しげな表情のまま付いていく板倉であったが、彼女の記者のカンは、
『ここは機会を待て、じきに大ネタが来る』
と告げていた。
「これ、どんな劇なの?」
開演を待つかずさにそう問われ、板倉は答えた。
「ええ、一人の男性をめぐる二人の女性の恋と友情の物語ですね。バンドを組んで友情を深めた三人が三角関係に苦しみつつ成長する、という話です…かずささんは演劇はよく御覧になるのですか?」
「…いや……それで、瀬能さんは?」
「瀬之内さんはヒロインの一人、冬木榛名役です。脚本も瀬之内さんが大学時代に所属していた劇団で書いたもので、なんとその時はもう一人のヒロイン、初芝雪音も瀬之内さんが演じました。つまり、一人二役ですね」
「…へぇ…」
自分で聞いておきながら、かずさの目はまだ開かぬ舞台に、正確にはその向こうにいるであろう瀬能千晶という女に釘付けになっていた。
彼女は…何者? 春希たちとの関係は?
この時既に、かずさは千晶という役者の罠に心の奥まで完全に絡めとられていた。 間もなく舞台が始まった。オープニングニングに流れたのは「White Album」。かずさにとっても懐かしい曲だ。
メジャーデビューを夢見る高校生、西村和希が二人のヒロインをバンドに引き込もうとするシーン…前半はラブコメディ色が強い
「俺と合わせられるのはお前しかいない!」
「だから質問に答えろ」
「俺みたいなヘタクソをフォローするには、お前くらいの腕がないと不可能なんだよ!」
開演後、しばらくして…2人目のヒロイン『冬木榛名』登場のあたりから…板倉はかずさの異変に気づいた。最初はギャグシーンで他の観客と同じようにクスクス笑っていたかずさが、やがてクスリとも笑わなくなったばかりか、だんだんと表情を強ばらせている。
「…あの…かずささん?」
「…まさ…か…っ」
かずさは、気付きつつあった。
この劇は…彼女と春希、そして雪菜の関係をモデルにしている。いや、三人の性格から関係、あの日々までを調べ尽くし、えぐり出している。
なぜ? なぜこんなことまであの女は知っている?
どうやって知った? 誰から聞いた?
…そして、なぜ、自分にこの劇を見せようとした?
かずさは舞台の上の『冬木榛名』から、もはや目を逸らすことができなかった。
榛名の演技は、かずさにとってあたかも呪いの鏡であり、かずさは自分の虚像たる榛名に存在を突き崩されつつあった。
舞台はコンテストの直前、控え室での和希と雪音。雪音が和希にキスをねだるシーンだ。
「じゃ、もう一度目をつぶるので考えてみてください。制限時間は30秒!」
「え? え? え?」
「ん〜っ!」
「目をつぶったのはわかったけどさ…その背延びは何?」
「残り20秒〜」
「ゆ、雪音…?」
「残り10秒〜」
「10秒はやっ!?」
「………」
「………」
「残り15秒〜」
「増えてる!?」
「…っ!」
観客がどっと笑ったその時、かずさの口から漏れたのは笑いではなく驚きの絡んだ呻き声であった。
気付いたのは板倉だけであった。彼女がかずさの視線の先を追うと、その先には舞台袖に控える千晶がいた。
千晶はそんなかずさの様子を観察して悦に入っていた。
「いやいや、あの席は特等席だねぇ…」
前列端のその席は舞台を見るための特等席ではなかった。舞台袖に控える役者がその観客を観察するための特等席だったのだ。
「3人の1人しか引っ掛からなかったのは残念だけど…さあ、見せてちょうだい。冬馬かずさの怒り、嫉妬、嘆き、叫び、涙。全部を…」
千晶はそう呟くと『榛名』に戻り、舞台へ踏み出した。
「イチャイチャしたりジタバタしたり忙しいな」
「うぇっ!? ふ、冬木?」
ガタンッ!
「えっ!? かずささん!?」
突然立ち上がったかずさに驚いたのは板倉だった。かずさの顔からは血の気が失せていた。
「ごめんな… それから、今日まで本当にありがとう」
「…まだ終わってないだろ。最後の、一番めんどくさい本番が残ってる」
「そうだな…これが最後だ」
「………っ」
「行こうか、冬木。雪音が待ってる」
「………西村」
「ん…?」
『冬木榛名』が『西村和希』に歩みを進める。
「…やめ…ろ…」
かずさには次の『榛名』の行動がわかっていたから、抗議の声を漏らさざるを得なかった。
しかし、かずさの弱々しい声は聞き入れられず、『榛名』は『和希』に唇をよせる。
舞台上のキスにどよめきの声を上げる観客の中で、かずさ一人だけが軋むような声を上げていた。
そして流れる『3人』の「届かない恋」
かずさの心の悲鳴は止まらなかった。 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。
武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」
宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。
朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」
雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
衣装は学園祭の時のアレ。
俺も当時のアレ―ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。
春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」
三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。
雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」
雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
そして。
鈴のような雪菜の声が響く――――。 「凄いよ北原、アンサンブル増刊2刷も配本決定だって?」
「マジですか鈴木さん?俺、北原にどんだけ引き離されてるんですか?」
「・・・松っちゃんゴメン、流石に気の毒で言えない。」
「鈴木さん・・・それもっと非道いから」
「・・・ハハハ」
「やっぱ本の内容も兎も角付録のCDもデカイよなぁ、ボーナストラックかなり話題になってるし」
「・・・そうみたいですね。
ああ、これからナイツレコードの重版分からの支払いの件で担当の方と約束の時間なので出てきますんでお願いします。」
「そっかぁナイツさん、持ち出しのままだと売れば売るほど赤だもんねぇ?」
「その辺は向こうもしっかりしてましたね。契約にきっちりと入れてましたよ」
「初版で○0万部行っとけば良かったね」
「鈴木さん・・・それ向こうが傾きますよ・・・
じゃあ会議室借りますんで。」
・・・
・・・
「でもさぁ俺、気になることがあるんですけど?」
「なに松ちゃん?」
「鈴木さん、これ見て下さいよ。」
「ゲラ?ナイツさんのブックレットの?CDの曲目じゃん」
「そう、この最後の・・・作詞と・・・歌手・・・んで奥付」
「えーと・・・マジ?家内制手工業?」
バタン!
「北原!!北原はいるか!?」
「あっ浜田さん、北原ならさっきアンサンブルの編集部の代理で重版の件でナイツレコードの担当と打ち合わせに行きましたけど?」
「今、総務部から印税の支払いについて問い合わせを受けたんだが冬馬かずさのCDの支払い先に不明な点があるって言われたんだよ!
歌手と作詞とピアノ以外の演奏の分の支払い先がどうなってるんだ!
冬馬曜子オフィスにアンサンブルの編集の方で問合わせたらそっちでやってくれって言われたぞ!」
「って、こっちに怒鳴らないでくださいよ。」
「北原ならナイツさんの担当と打ち合わせに出て行きましたよ。」
「なら丁度いい向こうさんにも確認入れさせ・・・」
「それに浜田さん、これ見て下さいよ」 小木曽家のチャイムを押し、出てきたのは何故か少し動揺した様子の雪菜のお母さんだった。
「あ、あら、北原さん。今日はどうしたの?」
「隆弘君から雪菜が体調を崩したと聞いたので、見舞いに――」
「そう、孝宏が連絡を…」
「どうかしました? まさか雪菜の身に何か…」
「えと、ほんとに大した事じゃないのよ? 熱は午後には下がってたし…今は多分、部屋で寝てるんじゃないかしらねぇ」
一応こちらの質問には答えているものの、完全に上の空の様子だ。
「そうですか。寝ているところ邪魔しても悪いし、一目様子を見たら帰りますので、上がってもよろしいですか?」
「一目様子ねぇ……まあ、北原さんなら、いい、のかな」
お母さんの態度に釈然としないながらも、取り敢えずお邪魔することにする。
「あのね、北原さん、こんな娘だけと、見捨てないで貰ってくださいね」
「え、はい、それはもちろん」
なぜか達観した様子のその言葉を後ろに聞き、雪菜の部屋に入る。
部屋は真っ暗で、雪菜は布団を被って寝ている様だ。少し寝苦しいのか、布団が微妙に動いていた。
「おーい、雪菜。大丈夫か」
「…ん、……あ……」
試しに小声で話しかけた所、うなされているような声が帰ってきた。また、布団は相変わらずもぞもぞ動いている。
(大したことないって言ってたけど、悪化してるんじゃないのか?)
心配になり静かに雪菜に近づいていくそうすると、雪菜の声が段々はっきりとして来て…
「…んぅ、あっ…ふぅ…、はぁ…」
ん、これってまさか
「ンぁ…はぁ……うく……はあぁ…!」
うん、もう間違いようがない。完全に雪菜、オナってるよ……
しかも完全に没頭しているのか、声をかけても全く止める様子がない。
さて、現状を把握したところで俺はどうすべきだろうか。いや、ここが雪菜の家じゃなければ問答無用でことに及ぶんだが…
さっき一目見て帰りますと言った以上、長居するは不自然だ。
かと言ってこのまま知らぬ顔をして帰るのも難しい。
俺が来たことを母親から雪菜が聞けば、なぜ起こさずに帰ったのかを追及してくるだろう。そうしたら現状をありのままに報告しなければならない。
なによりこのまま帰るのは身体的な面で辛い。
(どうせバレるなら今説明したほうがいいよな)
意を決して声を掛けることにする。
「おい雪菜。ほら!」
「……はぅ…あっ……うんぅ?」
とろんと完全に蕩けた表情の雪菜がゆっくりとこちらを向く。くそぅ、分かっていたがなかなか凶悪じゃないか!
「俺だ、春希。わかるか?」
「はる、き、くん?」
「そうだ、春希だ。よし、正気に戻って――うぐ」
「春希くぅん……んんぅ」
そして目があった瞬間、雪菜に唇を塞がれた。
「んんぅ、ん、はんぅ、あむ…」
雪菜は右腕を俺の頭の後ろに回し、完全にロックしてくる。片腕なのにも関わらず、息継ぎも出来ないほどの強固な力で。
「はぁ、んん、はあぁ、ぷはぅ」
そして空いた手で自分の秘所をまさぐり更に興奮を高める。
「んんんぅ、はあ、っはああ、んあっぅ」
突然の激しいキスに酸素が足りない俺の頭ではついて行けず、雪菜されるがままになり、そして
「ん、んむ、ん、ん――!」
雪菜が達してやっと、俺の唇が開放されることなった。
「ん、ん〜。ん? あ、あれ?」
そして改めて見つめることとなった雪菜は、段々と正気に戻っていき…
「おはよう、雪菜」
「なんで春希くんがいるのー!!」 ……そうだ、私は知っている。あの時の北原の中にある冬馬かずさの絶対性。
その時の過去が原因で生まれた、北原の中の自滅的願望。
冬馬かずさへの想いを拭い切れずに、その結果小木曽雪菜を裏切り、二人を深く傷つけた北原の中に生まれた贖罪の意識。
だがあの時の北原は、あいつ自身の根底にある理性でそれを何とか抑え込むことで保っていた。そのせいで道を踏み外すことを恐れていたかのように。
あの時に私が感じ取った北原の危険な雰囲気は、冬馬かずさが生み出した狂気。
もし、北原が冬馬かずさと再会し、自分の想いを膨らませ、それが理性では抑えられないくらいに膨張し。
そして、最悪、破裂してしまったら……。
……北原は、破滅する。
小木曽雪菜の存在があっても、今までの北原を抑えられなくなる。
冬馬かずさの存在は、それほどまでに北原の心を占めているから。
なぜなら、北原は壊れたがっているから。
そうしないと、冬馬かずさとは結ばれないから。
自分を壊し、自分をとことんまで追い詰めないと、自身の常識、理性の類のブレーキに止められてしまうから。
……正直、この考えが思い過ごしであってほしいと思う。
北原には、幸せが待っているのだから。
あいつが過去の傷と向かい合ったことで、かつて裏切り傷つけてしまった恋人ときっとヨリを戻せたのだから。
周りの誰からも祝福されるだろう、至高の幸福を手にできるはずなのだから。
……だが、当たっているだろう。
佐和子や鈴木の話を合わせれば、北原は冬馬かずさと共にウィーンに移ったのだ。
おそらく、小木曽雪菜を日本に残したまま。
……もし、北原がこの結論を周りに承知させたうえで出したのであれば、私は心からあいつを祝福できる。あいつが、本当の意味で本懐を遂げたということだから。
だが、おそらくその望みは薄いだろう。マスコミからすれば飛び掛かりたくなるネタではあるが、周りにしてみれば真逆の不幸も目の当たりにした結果なのだから。
そして、それは当たらずとも遠からずだろう。北原は冬馬かずさが関わることで破滅を願う。他ならぬ自分自身の。
そしてそれだけではなく、間違いなくその破滅願望は周囲を巻き込む。あいつの身近な人たちを、例外なく。
少なくとも、小木曽雪菜。彼女は確実に犠牲になる。北原が自分を裏切った直接の原因に、再び北原を奪われるということなのだから。 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 >>1
あたしは久しぶりにスレ立てしてもらったからって、すぐ>>1乙するようなバカ犬じゃない
たくさんレスしてもらわないと>>1乙しない、賢い犬なんだからな >>1
あたしは久しぶりにスレ立てしてもらったからって、すぐ>>1乙するようなバカ犬じゃない
たくさんレスしてもらわないと>>1乙しない、賢い犬なんだからな あ
・再びクラクフ
春希「そういう訳でほとんど開店休業状態です。あまり営業に精を出しても通信費交通費で足が出るので」
中年男「そういう状態なら師事先探すのもままならないか。厳しいな」
春希「あの。すいません」
中年男「何だね?」
春希「あなたも若い折、苦労されたと聞いています。何かアドバイスを頂けたらと」
中年男「何かと言われてもな。確かに私も長い間苦労した。コンサートなんてなかなかありつけなくて、師事先への謝礼も滞りがちだったね。その…曜子さんからの支援とかでなんとかしのいでいた」
春希「(形は違えど自分たちと同じか…)」
中年男「あとは、金にはならなくてもとにかくどんな事でもやったな。子供相手の先生から老人会の慰問、さらには路上弾きまで。
これも曜子さんの勧めだったんだが…おかげで独りよがりな自分の演奏を見直すきっかけになったかな。
恥ずかしながら私も昔、曜子さんに『観客はあなたの腕自慢見に来た訳じゃない』なんて言われていてね。芸術家なんて世界狭いから、気をつけてないとすぐに視野の狭い独りよがりに陥る。
世界の多くの演奏家が、いや、巨匠と言われるような人間ほど自分より若い人間のレッスンを盛んに受けたりしているのもそのためだな。最新の流行や理論も貴重だが、俗に言う『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』だ」
春希「 『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』? 」
中年男「そうだ。音楽も想像からの産物だから、最初は狭い密室での想像から生まれる。芸術にはそういう閉じた世界が必要だ。しかし、それを演奏するとなると今度は相手の要る技術になる。そこには開いた世界が必要だ。
つまり…仕事がないからと引きこもっているのは演奏家には良くない。どんな仕事でも、仕事以外の理由でも良いから外に出してあげないと、とは思うね」
春希「……」
中年男「まあ、私もまだ修行の途上のヒヨッコだ。参考になったら嬉しいがね」
春希「いえ。どうもありがとうございました」 ら
かずさの怒声が、徐々に涙声まじりに変わってくる。
…仕事と恋愛、って昔からあるタームだけど。ここまで極端なのは、なあ。
確かに約束したよ?
「毎日、かずさの練習が終わるころの、20:00までには家に帰る。どうしても駄目なときは、必ず事前に連絡する」って。
でもお前…、たった数分も、待てないのかよ。
…喜んでる俺が、いっていいことじゃない、けど、な。
春希 「悪かった。本当に悪かった。いますぐ帰るから、な?」
かずさ 「…今から帰ったって、後、数十分はかかるじゃないか…。なんでそんなに待たされなきゃいけないんだ…。
20:00までに帰るって、絶対帰る、って約束、したのに…」
俺は、約束の内容が飛躍していることに苦笑する。
春希 「超特急で!超特急で帰るから!」
かずさ 「…やだ。待てない。あたしもそっち行く。どっか途中で落ち合って
春希 「馬鹿。そんなことしなくていい。約束破ったのは俺の方なんだから、お前は待っててくれればいいんだよ」
かずさ 「馬鹿はおまえの方だ。約束なんて、今日は、今は、どうだって、いい。…早く、早く会いたい、会いたいんだよ、春希」
春希 「…かずさ。ごめん、本当にごめん。でも待っててくれよ。今日はもうタクシーで帰るからさ。
…その間もずっと、お前の声を、聞いてるからさ」
かずさ 「…はるきぃ」
必要最小限の帰り支度を最速で済ませ、俺は事務所を出る。
かずさ 「…はるき」
春希 「…なんだ?かずさ」
かずさ 「…ごめんな」
春希 「何を謝ってんだよ。約束を破ったのは俺のほうだろ?」
かずさ 「…ほんとはさ、わかってるんだ。わかってるんだよ。おまえがさ、あたしのために頑張ってくれてるって」
春希 「…かずさ」
かずさ 「…でもさ、やっぱり駄目なんだよ、あたし。駄目なときがあるんだよ。お前があたしのこと愛してるって。あたしだけのこと、愛してるって信じられても、駄目なものは駄目なんだ。駄目なときは、もっと駄目なんだ。
…お前がそばにいてくれなきゃ、駄目、なんだよ」
春希 「…なんか、あったのか?」
かずさ 「…ううん、何もない。朝、お前の胸の中で目覚めて、お前と一緒に朝ごはん食べて、お前とキスして別れて、ピアノに向かってお前のこと考えて…
それだけ、それだけの、幸せな、一日だった」
…昼飯はどうした、って突っ込みたいところだったけど。他にも色々と言いたいことはあったけど。
俺の胸が満たされていることが、一番駄目なところだったから、何も言えなかった。
かずさ 「…お前が、約束を破ったこと、以外は」
春希 「…」
かずさ 「…春希ぃ、はるきぃ、はやく、はやく、あいたい、よお」
春希 「…ああ」
タクシーを呼びとめ、乗り込む。行き先を告げる。
熾火はもう、燃え盛っている。…十数分ほど、かずさに遅れをとって。
かずさ 「…春希ぃ、あたしを、不安にさせないでくれよ…」
春希 「…かずさ、…かずさ、ごめんな?」
かずさ 「信じてても、不安なんだよ…。一度それが出てきたら、もう駄目なんだよ…」
春希 「…今日は、いつもより、キスしよう?抱きしめあおう?」
かずさ 「…うん、…うん。」
春希 「…かずさ、俺も会いたい。お前に会いたい。いますぐに会いたい、よ」
かずさ 「…春希ぃ、…遅い、よ」
春希 「…そうだな。いつだって俺は、遅いよな」
かずさ 「…そうだよ、いつまでだって、春希は、足りない、足りないんだよ。全然、足りない」 し
「まぁ、それはともかくだな。場所は地中海クルーズの豪華客船の中での演奏だ。10日間で3回。仕事が終わったら、二人でバカンスを過ごそう?」
俺だって、せっかくのバカンスの時期に仕事「だけ」を考えているわけじゃない。狙える時は一石で二鳥も三鳥も取ってやる。
ああ、バイト先の出版社で みっちり仕込まれたんだもんな・・・NYに居る麻理師匠は元気でやっているだろうか。
「船の上ぇ〜!?」
かずさにしては珍しく 素っ頓狂な声を上げたので、ちょっとずっこけた。
「やっ、やだよ、船の上なんて。ピアノだってロクなものが置いてあるわけないだろ?
よっ、よくも そんなピアノをあたしに弾かせようとするな。おまえにとって、あたしのピアノはそんなものだったのか…?」
「どうした?そんなに興奮しなくても・・・」
事務所に送られてきた、この仕事の企画書に添付されていた 船の設備やらを思い出しながら話をする。
「ピアノは悪くないんじゃないかな?何かベーゼルなんとかっていうメーカーのピアノがあるって言ってる。ちゃんと調律師も同乗してるし、エアコン付のピアノ保管庫もあるって話だぞ?」
かずさのピアノの為には、そこは妥協できないもんな。
「たしか、ここウィーンのピアノメーカーって言ってなかったか?かずさは嫌いな音じゃないって…」
昔、ピアノと楽しそうに戯れるかずさが 世界のピアノメーカーや音の特徴について 話してくれたことがあったっけ。
「もちろん、船の上だからな。そんなに大きいホールじゃ無いけど、オペラハウス風の造りになっているらしい。クルーズ中のコンサートとかオペラとかを売りにしている運営会社らしく、観客は芸術にうるさいお金持ちだ。」
かずさの頭を押さえ、驚きを唇で覆い隠し。
かずさ 「んんんんん〜っ、ん…あ、ん、んく…ん、ん〜っ!」
唇を舌でなめまわし、割り開く。…かずさの動揺なんて、まるで意に介しないまま。
かずさ 「ふむぅっ?ん、んぅ…ん、んぅぅぅぅっ」
歯の裏を、上あごを、舌の届くありとあらゆる場所を舐めまわし、かずさの舌を絡めとる。
俺の唾液を、血を、かずさの中に流し込む。飲み込ませる。
かずさ 「んんぅ、ちゅぷ、ん…んぅ、はぁぁ、あむ」
…そんな、一方的で、一歩も引かない、傲慢で、いやらしい、キスをした て5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて
からり、から… からり、から…
コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。
その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女—売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ—の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。
目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。
同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。
だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。
食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。
パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。
「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。
マネージャーはこれから冬馬曜子—稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長—の所に報告に向かうことになっている。
行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。
娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。
帰る、か…
かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。
母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。
そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。
ぴく…
かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」
振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。
しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…
かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。
その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。 ご
かずさはもう一度その女性の顔を見て、やっと彼女が誰であったか思い出した。
帰国して間もないころ、ピアニストかずさに「ファッションについて」というインタビューを求めてきた不躾な女性記者…確か板倉とかいう名前だった。
「なぁんだ…」
どちらかと言うとあまり会いたくない人物である。かずさは軽く肩を落とした。すぐ立ち去ろうかとも考えたが…
彼女と会った時の記憶がよみがえる。
いろいろと神経質になっていた時期にわけのわからない取材を求められ怒りを覚えたかずさは手にあったバッグを投げつけて逃げ出した。財布や携帯まで全て入ったバッグを…
何も考えず駆け出し、気がつくと迷子になってしまったかずさであったが、春希に助けられ事無きを得た。なお、投げつけたバッグはこの女性記者が律義に冬馬曜子オフィスまで届けてくれていた。
今から思い起こせば赤面ものである。しかも、その後この板倉とかいう女性記者にお礼もお詫びもしていない。
当時の自分自身はそれどころではなかったし、今からお礼なりお詫びをするとしても完全に時期を逸しているが…
「『ごめん』、くらい言っておくか」
このまま知らんふりをして帰っても同じくらい気まずい思いが残る。
ならば、また少々無遠慮な取材を食らうことになったとしても、謝意を伝えてすっきりした方がいいとかずさは考えた。
「すいません。記者の板倉さん…ですよね」
「え、…ええっ!」
話しかけられた女性記者板倉は驚き、当惑した。
なにせ目の前にいるのは冬馬かずさ。数か月前には取りつくしまもなかった人物の方から話しかけられれば面くらうのも当然だった。
かずさはかまわず、たどたどしく謝罪の言葉を口にする。
「この前はごめんなさい。いや、あの時はちょっと気が立ってたっていうか…その…」
板倉記者は困った。
相手は今をときめく話題の美人女性ピアニスト。ここは謝罪を受けつつ、うまくすり寄って取材に持ち込めたら僥倖である。
しかし今日は別の取材相手の出待ち中で、タイミングが悪かった。
『なんでこんなタイミングでこんなチャンスが…』
しかし、二兎を追う者一兎を得ず。ここは当面の取材を優先すべき。
少し待ってと板倉記者が言いかけたその時だった。
「あれ? 冬馬かずささんじゃないですか?」
そう言ってスタッフ出入り口のドアを開けて出てきたのは、板倉記者の本日の取材のターゲット。
劇団コーネックス二百三十度の新人女優、瀬ノ内晶、本名和泉千晶であった。 め5/13(木)「シアターモーラス」『届かない恋』開演前
「明日の公演後このコ連れて来て。そしたら取材でも何でも応じるよ」
瀬之内晶はそう言って板倉記者にチケットを握らせると、あっという間に雑踏へ消え失せてしまった。
あとに残されたかずさと板倉記者だが、かずさのほうは呆気にとられたようすで、板倉記者が何を話しかけても生返事しか返ってこなかった。
仕方なく、明日会う約束だけしてその場は別れた板倉記者だったが、かずさが来るかは半信半疑だった。
久しぶりに会った学友?にしては様子がおかしかったが…
翌日の公演開始10分前。待ち合わせは20分前だったから、もう10分の遅刻だ。
「…また騙されたかも?」
シアターモーラスの入口で待ちつつ、そうぼやいた板倉であったが、程なく彼女は現れた。
「…やあ、板倉さん」
「はいはい、かずささんこんにちは〜。今日はお付き合いありがとうございます。いやいや、本日は僭越ながら御同席させていただきますので…」
かずさが現れた嬉しさのあまり、忽ちテンションを上げる板倉であったが、かずさはそんな板倉がまるで視界に入っていないように、
「…行くか…」
と言うと、すたすた劇場に脚を進めた。
訝しげな表情のまま付いていく板倉であったが、彼女の記者のカンは、
『ここは機会を待て、じきに大ネタが来る』
と告げていた。
「これ、どんな劇なの?」
開演を待つかずさにそう問われ、板倉は答えた。
「ええ、一人の男性をめぐる二人の女性の恋と友情の物語ですね。バンドを組んで友情を深めた三人が三角関係に苦しみつつ成長する、という話です…かずささんは演劇はよく御覧になるのですか?」
「…いや……それで、瀬能さんは?」
「瀬之内さんはヒロインの一人、冬木榛名役です。脚本も瀬之内さんが大学時代に所属していた劇団で書いたもので、なんとその時はもう一人のヒロイン、初芝雪音も瀬之内さんが演じました。つまり、一人二役ですね」
「…へぇ…」
自分で聞いておきながら、かずさの目はまだ開かぬ舞台に、正確にはその向こうにいるであろう瀬能千晶という女に釘付けになっていた。
彼女は…何者? 春希たちとの関係は?
この時既に、かずさは千晶という役者の罠に心の奥まで完全に絡めとられていた。 ん間もなく舞台が始まった。オープニングニングに流れたのは「White Album」。かずさにとっても懐かしい曲だ。
メジャーデビューを夢見る高校生、西村和希が二人のヒロインをバンドに引き込もうとするシーン…前半はラブコメディ色が強い
「俺と合わせられるのはお前しかいない!」
「だから質問に答えろ」
「俺みたいなヘタクソをフォローするには、お前くらいの腕がないと不可能なんだよ!」
開演後、しばらくして…2人目のヒロイン『冬木榛名』登場のあたりから…板倉はかずさの異変に気づいた。最初はギャグシーンで他の観客と同じようにクスクス笑っていたかずさが、やがてクスリとも笑わなくなったばかりか、だんだんと表情を強ばらせている。
「…あの…かずささん?」
「…まさ…か…っ」
かずさは、気付きつつあった。
この劇は…彼女と春希、そして雪菜の関係をモデルにしている。いや、三人の性格から関係、あの日々までを調べ尽くし、えぐり出している。
なぜ? なぜこんなことまであの女は知っている?
どうやって知った? 誰から聞いた?
…そして、なぜ、自分にこの劇を見せようとした?
かずさは舞台の上の『冬木榛名』から、もはや目を逸らすことができなかった。
榛名の演技は、かずさにとってあたかも呪いの鏡であり、かずさは自分の虚像たる榛名に存在を突き崩されつつあった。
舞台はコンテストの直前、控え室での和希と雪音。雪音が和希にキスをねだるシーンだ。
「じゃ、もう一度目をつぶるので考えてみてください。制限時間は30秒!」
「え? え? え?」
「ん〜っ!」
「目をつぶったのはわかったけどさ…その背延びは何?」
「残り20秒〜」
「ゆ、雪音…?」
「残り10秒〜」
「10秒はやっ!?」
「………」
「………」
「残り15秒〜」
「増えてる!?」
「…っ!」
観客がどっと笑ったその時、かずさの口から漏れたのは笑いではなく驚きの絡んだ呻き声であった。
気付いたのは板倉だけであった。彼女がかずさの視線の先を追うと、その先には舞台袖に控える千晶がいた。
千晶はそんなかずさの様子を観察して悦に入っていた。
「いやいや、あの席は特等席だねぇ…」
前列端のその席は舞台を見るための特等席ではなかった。舞台袖に控える役者がその観客を観察するための特等席だったのだ。
「3人の1人しか引っ掛からなかったのは残念だけど…さあ、見せてちょうだい。冬馬かずさの怒り、嫉妬、嘆き、叫び、涙。全部を…」
千晶はそう呟くと『榛名』に戻り、舞台へ踏み出した。
「イチャイチャしたりジタバタしたり忙しいな」
「うぇっ!? ふ、冬木?」
ガタンッ!
「えっ!? かずささん!?」
突然立ち上がったかずさに驚いたのは板倉だった。かずさの顔からは血の気が失せていた。
「ごめんな… それから、今日まで本当にありがとう」
「…まだ終わってないだろ。最後の、一番めんどくさい本番が残ってる」
「そうだな…これが最後だ」
「………っ」
「行こうか、冬木。雪音が待ってる」
「………西村」
「ん…?」
『冬木榛名』が『西村和希』に歩みを進める。
「…やめ…ろ…」
かずさには次の『榛名』の行動がわかっていたから、抗議の声を漏らさざるを得なかった。
しかし、かずさの弱々しい声は聞き入れられず、『榛名』は『和希』に唇をよせる。
舞台上のキスにどよめきの声を上げる観客の中で、かずさ一人だけが軋むような声を上げていた。
そして流れる『3人』の「届かない恋」
かずさの心の悲鳴は止まらなかった。 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。
武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」
宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。
朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」
雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
衣装は学園祭の時のアレ。
俺も当時のアレ―ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。
春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」
三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。
雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」
雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
そして。
鈴のような雪菜の声が響く――――。 凄いよ北原、アンサンブル増刊2刷も配本決定だって?」
「マジですか鈴木さん?俺、北原にどんだけ引き離されてるんですか?」
「・・・松っちゃんゴメン、流石に気の毒で言えない。」
「鈴木さん・・・それもっと非道いから」
「・・・ハハハ」
「やっぱ本の内容も兎も角付録のCDもデカイよなぁ、ボーナストラックかなり話題になってるし」
「・・・そうみたいですね。
ああ、これからナイツレコードの重版分からの支払いの件で担当の方と約束の時間なので出てきますんでお願いします。」
「そっかぁナイツさん、持ち出しのままだと売れば売るほど赤だもんねぇ?」
「その辺は向こうもしっかりしてましたね。契約にきっちりと入れてましたよ」
「初版で○0万部行っとけば良かったね」
「鈴木さん・・・それ向こうが傾きますよ・・・
じゃあ会議室借りますんで。」
・・・
・・・
「でもさぁ俺、気になることがあるんですけど?」
「なに松ちゃん?」
「鈴木さん、これ見て下さいよ。」
「ゲラ?ナイツさんのブックレットの?CDの曲目じゃん」
「そう、この最後の・・・作詞と・・・歌手・・・んで奥付」
「えーと・・・マジ?家内制手工業?」
バタン!
「北原!!北原はいるか!?」
「あっ浜田さん、北原ならさっきアンサンブルの編集部の代理で重版の件でナイツレコードの担当と打ち合わせに行きましたけど?」
「今、総務部から印税の支払いについて問い合わせを受けたんだが冬馬かずさのCDの支払い先に不明な点があるって言われたんだよ!
歌手と作詞とピアノ以外の演奏の分の支払い先がどうなってるんだ!
冬馬曜子オフィスにアンサンブルの編集の方で問合わせたらそっちでやってくれって言われたぞ!」
「って、こっちに怒鳴らないでくださいよ。」
「北原ならナイツさんの担当と打ち合わせに出て行きましたよ。」
「なら丁度いい向こうさんにも確認入れさせ・・・」
「それに浜田さん、これ見て下さいよ」 小木曽家のチャイムを押し、出てきたのは何故か少し動揺した様子の雪菜のお母さんだった。
「あ、あら、北原さん。今日はどうしたの?」
「隆弘君から雪菜が体調を崩したと聞いたので、見舞いに――」
「そう、孝宏が連絡を…」
「どうかしました? まさか雪菜の身に何か…」
「えと、ほんとに大した事じゃないのよ? 熱は午後には下がってたし…今は多分、部屋で寝てるんじゃないかしらねぇ」
一応こちらの質問には答えているものの、完全に上の空の様子だ。
「そうですか。寝ているところ邪魔しても悪いし、一目様子を見たら帰りますので、上がってもよろしいですか?」
「一目様子ねぇ……まあ、北原さんなら、いい、のかな」
お母さんの態度に釈然としないながらも、取り敢えずお邪魔することにする。
「あのね、北原さん、こんな娘だけと、見捨てないで貰ってくださいね」
「え、はい、それはもちろん」
なぜか達観した様子のその言葉を後ろに聞き、雪菜の部屋に入る。
部屋は真っ暗で、雪菜は布団を被って寝ている様だ。少し寝苦しいのか、布団が微妙に動いていた。
「おーい、雪菜。大丈夫か」
「…ん、……あ……」
試しに小声で話しかけた所、うなされているような声が帰ってきた。また、布団は相変わらずもぞもぞ動いている。
(大したことないって言ってたけど、悪化してるんじゃないのか?)
心配になり静かに雪菜に近づいていくそうすると、雪菜の声が段々はっきりとして来て…
「…んぅ、あっ…ふぅ…、はぁ…」
ん、これってまさか
「ンぁ…はぁ……うく……はあぁ…!」
うん、もう間違いようがない。完全に雪菜、オナってるよ……
しかも完全に没頭しているのか、声をかけても全く止める様子がない。
さて、現状を把握したところで俺はどうすべきだろうか。いや、ここが雪菜の家じゃなければ問答無用でことに及ぶんだが…
さっき一目見て帰りますと言った以上、長居するは不自然だ。
かと言ってこのまま知らぬ顔をして帰るのも難しい。
俺が来たことを母親から雪菜が聞けば、なぜ起こさずに帰ったのかを追及してくるだろう。そうしたら現状をありのままに報告しなければならない。
なによりこのまま帰るのは身体的な面で辛い。
(どうせバレるなら今説明したほうがいいよな)
意を決して声を掛けることにする。
「おい雪菜。ほら!」
「……はぅ…あっ……うんぅ?」
とろんと完全に蕩けた表情の雪菜がゆっくりとこちらを向く。くそぅ、分かっていたがなかなか凶悪じゃないか!
「俺だ、春希。わかるか?」
「はる、き、くん?」
「そうだ、春希だ。よし、正気に戻って――うぐ」
「春希くぅん……んんぅ」
そして目があった瞬間、雪菜に唇を塞がれた。
「んんぅ、ん、はんぅ、あむ…」
雪菜は右腕を俺の頭の後ろに回し、完全にロックしてくる。片腕なのにも関わらず、息継ぎも出来ないほどの強固な力で。
「はぁ、んん、はあぁ、ぷはぅ」
そして空いた手で自分の秘所をまさぐり更に興奮を高める。
「んんんぅ、はあ、っはああ、んあっぅ」
突然の激しいキスに酸素が足りない俺の頭ではついて行けず、雪菜されるがままになり、そして
「ん、んむ、ん、ん――!」
雪菜が達してやっと、俺の唇が開放されることなった。
「ん、ん〜。ん? あ、あれ?」
そして改めて見つめることとなった雪菜は、段々と正気に戻っていき…
「おはよう、雪菜」
「なんで春希くんがいるのー!!」
……そうだ、私は知っている。あの時の北原の中にある冬馬かずさの絶対性 ……そうだ、私は知っている。あの時の北原の中にある冬馬かずさの絶対性。
その時の過去が原因で生まれた、北原の中の自滅的願望。
冬馬かずさへの想いを拭い切れずに、その結果小木曽雪菜を裏切り、二人を深く傷つけた北原の中に生まれた贖罪の意識。
だがあの時の北原は、あいつ自身の根底にある理性でそれを何とか抑え込むことで保っていた。そのせいで道を踏み外すことを恐れていたかのように。
あの時に私が感じ取った北原の危険な雰囲気は、冬馬かずさが生み出した狂気。
もし、北原が冬馬かずさと再会し、自分の想いを膨らませ、それが理性では抑えられないくらいに膨張し。
そして、最悪、破裂してしまったら……。
……北原は、破滅する。
小木曽雪菜の存在があっても、今までの北原を抑えられなくなる。
冬馬かずさの存在は、それほどまでに北原の心を占めているから。
なぜなら、北原は壊れたがっているから。
そうしないと、冬馬かずさとは結ばれないから。
自分を壊し、自分をとことんまで追い詰めないと、自身の常識、理性の類のブレーキに止められてしまうから。
……正直、この考えが思い過ごしであってほしいと思う。
北原には、幸せが待っているのだから。
あいつが過去の傷と向かい合ったことで、かつて裏切り傷つけてしまった恋人ときっとヨリを戻せたのだから。
周りの誰からも祝福されるだろう、至高の幸福を手にできるはずなのだから。
……だが、当たっているだろう。
佐和子や鈴木の話を合わせれば、北原は冬馬かずさと共にウィーンに移ったのだ。
おそらく、小木曽雪菜を日本に残したまま。
……もし、北原がこの結論を周りに承知させたうえで出したのであれば、私は心からあいつを祝福できる。あいつが、本当の意味で本懐を遂げたということだから。
だが、おそらくその望みは薄いだろう。マスコミからすれば飛び掛かりたくなるネタではあるが、周りにしてみれば真逆の不幸も目の当たりにした結果なのだから。
そして、それは当たらずとも遠からずだろう。北原は冬馬かずさが関わることで破滅を願う。他ならぬ自分自身の。
そしてそれだけではなく、間違いなくその破滅願望は周囲を巻き込む。あいつの身近な人たちを、例外なく。
少なくとも、小木曽雪菜。彼女は確実に犠牲になる。北原が自分を裏切った直接の原因に、再び北原を奪われるということなのだから。
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 かずさの怒声が、徐々に涙声まじりに変わってくる。
…仕事と恋愛、って昔からあるタームだけど。ここまで極端なのは、なあ。
確かに約束したよ?
「毎日、かずさの練習が終わるころの、20:00までには家に帰る。どうしても駄目なときは、必ず事前に連絡する」って。
でもお前…、たった数分も、待てないのかよ。
…喜んでる俺が、いっていいことじゃない、けど、な。
春希 「悪かった。本当に悪かった。いますぐ帰るから、な?」
かずさ 「…今から帰ったって、後、数十分はかかるじゃないか…。なんでそんなに待たされなきゃいけないんだ…。
20:00までに帰るって、絶対帰る、って約束、したのに…」
俺は、約束の内容が飛躍していることに苦笑する。
春希 「超特急で!超特急で帰るから!」
かずさ 「…やだ。待てない。あたしもそっち行く。どっか途中で落ち合って
春希 「馬鹿。そんなことしなくていい。約束破ったのは俺の方なんだから、お前は待っててくれればいいんだよ」
かずさ 「馬鹿はおまえの方だ。約束なんて、今日は、今は、どうだって、いい。…早く、早く会いたい、会いたいんだよ、春希」
春希 「…かずさ。ごめん、本当にごめん。でも待っててくれよ。今日はもうタクシーで帰るからさ。
…その間もずっと、お前の声を、聞いてるからさ」
かずさ 「…はるきぃ」
必要最小限の帰り支度を最速で済ませ、俺は事務所を出る。
かずさ 「…はるき」
春希 「…なんだ?かずさ」
かずさ 「…ごめんな」
春希 「何を謝ってんだよ。約束を破ったのは俺のほうだろ?」
かずさ 「…ほんとはさ、わかってるんだ。わかってるんだよ。おまえがさ、あたしのために頑張ってくれてるって」
春希 「…かずさ」
かずさ 「…でもさ、やっぱり駄目なんだよ、あたし。駄目なときがあるんだよ。お前があたしのこと愛してるって。あたしだけのこと、愛してるって信じられても、駄目なものは駄目なんだ。駄目なときは、もっと駄目なんだ。
…お前がそばにいてくれなきゃ、駄目、なんだよ」
春希 「…なんか、あったのか?」
かずさ 「…ううん、何もない。朝、お前の胸の中で目覚めて、お前と一緒に朝ごはん食べて、お前とキスして別れて、ピアノに向かってお前のこと考えて…
それだけ、それだけの、幸せな、一日だった」
…昼飯はどうした、って突っ込みたいところだったけど。他にも色々と言いたいことはあったけど。
俺の胸が満たされていることが、一番駄目なところだったから、何も言えなかった。
かずさ 「…お前が、約束を破ったこと、以外は」
春希 「…」
かずさ 「…春希ぃ、はるきぃ、はやく、はやく、あいたい、よお」
春希 「…ああ」
タクシーを呼びとめ、乗り込む。行き先を告げる。
熾火はもう、燃え盛っている。…十数分ほど、かずさに遅れをとって。
かずさ 「…春希ぃ、あたしを、不安にさせないでくれよ…」
春希 「…かずさ、…かずさ、ごめんな?」
かずさ 「信じてても、不安なんだよ…。一度それが出てきたら、もう駄目なんだよ…」
春希 「…今日は、いつもより、キスしよう?抱きしめあおう?」
かずさ 「…うん、…うん。」
春希 「…かずさ、俺も会いたい。お前に会いたい。いますぐに会いたい、よ」
かずさ 「…春希ぃ、…遅い、よ」
春希 「…そうだな。いつだって俺は、遅いよな」
かずさ 「…そうだよ、いつまでだって、春希は、足りない、足りないんだよ。全然、足りない」 脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」
「いいえ…」
春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。
「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」
「はい…」
誰にも相談できない。特にかずさには…
◆◆
「ただいま」
「遅いぞ、春希」
玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。
「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」
気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。
医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」
しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」
かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。
眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。
ベッドを一つにするんじゃなかった…
逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。
玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。
子供がいなくて良かったと心底思った。
吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
まずい
だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。
紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。
「何をしてるんだ? 早くしろよ」
急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。
居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。
取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 かずさの怒声が、徐々に涙声まじりに変わってくる。
…仕事と恋愛、って昔からあるタームだけど。ここまで極端なのは、なあ。
確かに約束したよ?
「毎日、かずさの練習が終わるころの、20:00までには家に帰る。どうしても駄目なときは、必ず事前に連絡する」って。
でもお前…、たった数分も、待てないのかよ。
…喜んでる俺が、いっていいことじゃない、けど、な。
春希 「悪かった。本当に悪かった。いますぐ帰るから、な?」
かずさ 「…今から帰ったって、後、数十分はかかるじゃないか…。なんでそんなに待たされなきゃいけないんだ…。
20:00までに帰るって、絶対帰る、って約束、したのに…」
俺は、約束の内容が飛躍していることに苦笑する。
春希 「超特急で!超特急で帰るから!」
かずさ 「…やだ。待てない。あたしもそっち行く。どっか途中で落ち合って
春希 「馬鹿。そんなことしなくていい。約束破ったのは俺の方なんだから、お前は待っててくれればいいんだよ」
かずさ 「馬鹿はおまえの方だ。約束なんて、今日は、今は、どうだって、いい。…早く、早く会いたい、会いたいんだよ、春希」
春希 「…かずさ。ごめん、本当にごめん。でも待っててくれよ。今日はもうタクシーで帰るからさ。
…その間もずっと、お前の声を、聞いてるからさ」
かずさ 「…はるきぃ」
必要最小限の帰り支度を最速で済ませ、俺は事務所を出る。
かずさ 「…はるき」
春希 「…なんだ?かずさ」
かずさ 「…ごめんな」
春希 「何を謝ってんだよ。約束を破ったのは俺のほうだろ?」
かずさ 「…ほんとはさ、わかってるんだ。わかってるんだよ。おまえがさ、あたしのために頑張ってくれてるって」
春希 「…かずさ」
かずさ 「…でもさ、やっぱり駄目なんだよ、あたし。駄目なときがあるんだよ。お前があたしのこと愛してるって。あたしだけのこと、愛してるって信じられても、駄目なものは駄目なんだ。駄目なときは、もっと駄目なんだ。
…お前がそばにいてくれなきゃ、駄目、なんだよ」
春希 「…なんか、あったのか?」
かずさ 「…ううん、何もない。朝、お前の胸の中で目覚めて、お前と一緒に朝ごはん食べて、お前とキスして別れて、ピアノに向かってお前のこと考えて…
それだけ、それだけの、幸せな、一日だった」
…昼飯はどうした、って突っ込みたいところだったけど。他にも色々と言いたいことはあったけど。
俺の胸が満たされていることが、一番駄目なところだったから、何も言えなかった。
かずさ 「…お前が、約束を破ったこと、以外は」
春希 「…」
かずさ 「…春希ぃ、はるきぃ、はやく、はやく、あいたい、よお」
春希 「…ああ」
タクシーを呼びとめ、乗り込む。行き先を告げる。
熾火はもう、燃え盛っている。…十数分ほど、かずさに遅れをとって。
かずさ 「…春希ぃ、あたしを、不安にさせないでくれよ…」
春希 「…かずさ、…かずさ、ごめんな?」
かずさ 「信じてても、不安なんだよ…。一度それが出てきたら、もう駄目なんだよ…」
春希 「…今日は、いつもより、キスしよう?抱きしめあおう?」
かずさ 「…うん、…うん。」
春希 「…かずさ、俺も会いたい。お前に会いたい。いますぐに会いたい、よ」
かずさ 「…春希ぃ、…遅い、よ」
春希 「…そうだな。いつだって俺は、遅いよな」
かずさ 「…そうだよ、いつまでだって、春希は、足りない、足りないんだよ。全然、足りない」 間もなく舞台が始まった。オープニングニングに流れたのは「White Album」。かずさにとっても懐かしい曲だ。
メジャーデビューを夢見る高校生、西村和希が二人のヒロインをバンドに引き込もうとするシーン…前半はラブコメディ色が強い
「俺と合わせられるのはお前しかいない!」
「だから質問に答えろ」
「俺みたいなヘタクソをフォローするには、お前くらいの腕がないと不可能なんだよ!」
開演後、しばらくして…2人目のヒロイン『冬木榛名』登場のあたりから…板倉はかずさの異変に気づいた。最初はギャグシーンで他の観客と同じようにクスクス笑っていたかずさが、やがてクスリとも笑わなくなったばかりか、だんだんと表情を強ばらせている。
「…あの…かずささん?」
「…まさ…か…っ」
かずさは、気付きつつあった。
この劇は…彼女と春希、そして雪菜の関係をモデルにしている。いや、三人の性格から関係、あの日々までを調べ尽くし、えぐり出している。
なぜ? なぜこんなことまであの女は知っている?
どうやって知った? 誰から聞いた?
…そして、なぜ、自分にこの劇を見せようとした?
かずさは舞台の上の『冬木榛名』から、もはや目を逸らすことができなかった。
榛名の演技は、かずさにとってあたかも呪いの鏡であり、かずさは自分の虚像たる榛名に存在を突き崩されつつあった。
舞台はコンテストの直前、控え室での和希と雪音。雪音が和希にキスをねだるシーンだ。
「じゃ、もう一度目をつぶるので考えてみてください。制限時間は30秒!」
「え? え? え?」
「ん〜っ!」
「目をつぶったのはわかったけどさ…その背延びは何?」
「残り20秒〜」
「ゆ、雪音…?」
「残り10秒〜」
「10秒はやっ!?」
「………」
「………」
「残り15秒〜」
「増えてる!?」
「…っ!」
観客がどっと笑ったその時、かずさの口から漏れたのは笑いではなく驚きの絡んだ呻き声であった。
気付いたのは板倉だけであった。彼女がかずさの視線の先を追うと、その先には舞台袖に控える千晶がいた。
千晶はそんなかずさの様子を観察して悦に入っていた。
「いやいや、あの席は特等席だねぇ…」
前列端のその席は舞台を見るための特等席ではなかった。舞台袖に控える役者がその観客を観察するための特等席だったのだ。
「3人の1人しか引っ掛からなかったのは残念だけど…さあ、見せてちょうだい。冬馬かずさの怒り、嫉妬、嘆き、叫び、涙。全部を…」
千晶はそう呟くと『榛名』に戻り、舞台へ踏み出した。
「イチャイチャしたりジタバタしたり忙しいな」
「うぇっ!? ふ、冬木?」
ガタンッ!
「えっ!? かずささん!?」
突然立ち上がったかずさに驚いたのは板倉だった。かずさの顔からは血の気が失せていた。
「ごめんな… それから、今日まで本当にありがとう」
「…まだ終わってないだろ。最後の、一番めんどくさい本番が残ってる」
「そうだな…これが最後だ」
「………っ」
「行こうか、冬木。雪音が待ってる」
「………西村」
「ん…?」
『冬木榛名』が『西村和希』に歩みを進める。
「…やめ…ろ…」
かずさには次の『榛名』の行動がわかっていたから、抗議の声を漏らさざるを得なかった。
しかし、かずさの弱々しい声は聞き入れられず、『榛名』は『和希』に唇をよせる。
舞台上のキスにどよめきの声を上げる観客の中で、かずさ一人だけが軋むような声を上げていた。
そして流れる『3人』の「届かない恋」
かずさの心の悲鳴は止まらなかった。 結婚して一年目の二月七日。
誕生日の一週間前のこの日になって初めて、雪菜がこんな提案をしてきた。
雪菜「ねぇ、春希くん。新曲の歌詞、できてる?」
春希「……は?」
雪菜「は、じゃないよ。もう一週間前だよ?
わたしたちのいつものペースから考えて、そろそろ合宿に入らないといけないと思う!」
春希「や、だから」
雪菜「わたし、ちゃんとかずさには連絡してあるからね。それでもうスタジオだって予約してあるんだから。
準備万端だよ? ふふっ、これも春希くんの影響かなぁ。
あとは春希くんが歌詞を作って、かずさが曲を作って、練習するだけ!」
春希「いやそれ、『だけ』じゃなくて曲作りのほぼ全部……」
雪菜「さ、頑張ろう? わたしの誕生日までもう時間ないんだよ?」
春希「…………」
……重ねて言うが、雪菜がこんな提案をしたのはこの日が初めてである。
そして、これは俺自身もまぁどうでもいいといえばいいのだが、もう一つだけ。
武也も仲間に入れてやってくれ。
◆◆
とはいえ、新妻のやりたいことをできる限り応援するのは夫の務めではないだろうか。
そう脳内で言い訳して、バックパックにこれでもかとばかり食品や生活用品や、そういったものを詰める。
そしてそんな都内に不似合いな大荷物を担いでスタジオに行くと、既に待機していたかずさとの挨拶も
そこそこに早速歌詞作りに入った。
テーマは家族。愛しのお姫様のご指定だった。
春希「家族。家族か……」
かずさ「なんだ、雪菜との理想の家庭像でも想像してるのか?」
春希「あー。それもあるなぁ」
かずさ「どうせイチヒメニタローがどうとか、家は一戸建てもいいけどリスクを考えると、とか。
そんなしょうもないことばっかりなんだろ?」
春希「そ、それのどこが悪いんだよ!
どこかの誰かみたいにそれ一本で勝負できるものがないんだから仕方ないだろう。
……それより一姫二太郎なんて言葉、よくお前が知ってたな」
かずさ「う、うるさいんだよ委員長は! ったく、相変わらず安定志向な奴め。
これじゃ、出来上がる歌詞も面白みがなさそうだ」
春希「いいだろ本職じゃないんだから……。そんなこと言うくらいならお前は雪菜と遊んでろ。
そうだな、歌のお兄さんとお姉さんごっこがいいんじゃないか?」
かずさ「誰がお兄さんだ!」
春希「先回りして怒んなよ!」
何故だろう。スタジオに入ると精神年齢まで高校時代に戻るような気がする。
純粋に騒いでいられたあの頃と、色々——なんて言葉で片付けたら雪菜に申し訳なくなるくらいの頃。
そしてうちの親まで雪菜が篭絡した後で、結婚。
……本当に、愛すべき妻だ。
かずさが廊下に出て行くのを見届け、呟いた。 冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 ・クラクフ
春希「そんな訳で、ウィーンから離れても仕事がなかなか軌道に戻らなくて困ってます。西側ではもう仕事もらえないですし、東側でも続かないので苦しいです」
中年男「私もあちこち回ってるが、悪い噂が酷いな。曜子さんもやり方がやり方だったから恨みを持っていた者も多いしな」
・イタリア
評論家「なんだか今一瞬、耳鳴りがしたわね」
その友人「誰かが君の悪い噂をしているに違いないな」
評論家「なら、トウマの親子が一生耳鳴りに苦しむようにしてやらないとね」
友人「君も人が悪いね。ちょっと記事潰されたくらいで」
評論家「オトコに手を回されて、じゃなかったらここまで恨みはしないわよ!」
友人「おーこわ」
・再びクラクフ
春希「そういう訳でほとんど開店休業状態です。あまり営業に精を出しても通信費交通費で足が出るので」
中年男「そういう状態なら師事先探すのもままならないか。厳しいな」
春希「あの。すいません」
中年男「何だね?」
春希「あなたも若い折、苦労されたと聞いています。何かアドバイスを頂けたらと」
中年男「何かと言われてもな。確かに私も長い間苦労した。コンサートなんてなかなかありつけなくて、師事先への謝礼も滞りがちだったね。その…曜子さんからの支援とかでなんとかしのいでいた」
春希「(形は違えど自分たちと同じか…)」
中年男「あとは、金にはならなくてもとにかくどんな事でもやったな。子供相手の先生から老人会の慰問、さらには路上弾きまで。
これも曜子さんの勧めだったんだが…おかげで独りよがりな自分の演奏を見直すきっかけになったかな。
恥ずかしながら私も昔、曜子さんに『観客はあなたの腕自慢見に来た訳じゃない』なんて言われていてね。芸術家なんて世界狭いから、気をつけてないとすぐに視野の狭い独りよがりに陥る。
世界の多くの演奏家が、いや、巨匠と言われるような人間ほど自分より若い人間のレッスンを盛んに受けたりしているのもそのためだな。最新の流行や理論も貴重だが、俗に言う『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』だ」
春希「 『いい音楽は密室で生まれ、いい演奏は劇場で生まれる』? 」
中年男「そうだ。音楽も想像からの産物だから、最初は狭い密室での想像から生まれる。芸術にはそういう閉じた世界が必要だ。しかし、それを演奏するとなると今度は相手の要る技術になる。そこには開いた世界が必要だ。
つまり…仕事がないからと引きこもっているのは演奏家には良くない。どんな仕事でも、仕事以外の理由でも良いから外に出してあげないと、とは思うね」
春希「……」
中年男「まあ、私もまだ修行の途上のヒヨッコだ。参考になったら嬉しいがね」
春希「いえ。どうもありがとうございました」 ・自宅
春希「いったいどうしたっていうんだ? かずさ。危なかったぞ」
かずさ「…春希はあれが平気なのか。そうか。いいな。
あたしは勘弁だよ。あんな幸せそうな光景見るだけでイヤになる」
春希「人の結婚式なんだからどうでもいいだろ?」
かずさ「春希は平気なんだな。こないだもあたしのウェディングドレスさえ見られればどうでもよかったんだろ」
春希「ウェディングドレスさえ着られればどうでもいいって言ってたのはかずさだろ? だから曜子さんも遠慮してあんな慎ましい式にしてくれたんじゃないか」
かずさ「春希…まさか、あたしが結婚式に興味がないからそういうふうに言っていたと思ってたのか?」
春希「興味がないって…実際、嫌がっていたじゃないか」
かずさ「うう…春希だけはわかってくれていると思ったのに。あたしだって女だぞ」
春希「何だよ?」
かずさ「春希さえいれば良かったのに。傷つけた雪菜のいる日本に戻るのもイヤだったし、大きな式を挙げて騒ぐなんて、雪菜に見られるかも知れないのにそんな気分になんて到底なれなかったよ!」
春希「え?」
かずさ「雪菜の前で幸せにしてる姿を見せようなんて、そんな残酷で恥ずかしい真似なんて思いつきすらしなかったよ! あたしは雪菜に見られない国で春希と一緒にいられれば良かったんだ!」
春希「か、かずさ?」
かずさ「春希だって、呵責に耐えられないから日本を出るまであたしを抱かなかったんじゃないのか? そんな春希だからあたしの気持ちも同じだとわかっていると思ってたよ!」
春希「そ、そんなの言わないのにわかるわけないだろ!」
かずさ「夜の音楽室でもどこでも陽の当たらない所なら良かったんだ。綺麗な花も照明もお酒もご馳走も音楽も要らなかったんだ。親友を裏切っておいて他に人を集めて祝福してもらおうなんて最初からできるわけなかったんだ…」
春希「どうしてだよ! 許してもらったっていいじゃないか!」
かずさ「なんでそんなことができるんだよ! 許してもらおうなんて考えつかないよ! 謝って許してもらえるなんて思っているなら、なんで日本から出る必要があったんだよ!?」
春希「(それは…そうしたらかずさを独り占めできるから…かずさを助けるただ一人の男になれるから…)」
かずさ「春希と新しい道歩み始めた区切りをつけるために、それに、あたしだってウェディングドレスくらいは着てみたかったし、ちょっとぐらいなら雪菜に会うこともないだろうからと日本に行ったのに…」
春希「……」
かずさ「何でそこに雪菜を連れてくるんだよ! 一番いちゃいけないだろ! おかしいだろ! 許してくれるもなにも、ウェディングドレス姿で雪菜に謝れとでも言うのかよ! そんな残酷なことよくあたしに押し付けられるな!」
春希「そんな…呼んだのは曜子さんで…」
かずさ「…もういい。わかった。春希は轢き逃げした人の遺族にドクロマークのTシャツ来て謝りに行けるような男だったんだな。
いいよ。こないだも勝手に日本に帰ってたみたいだし。勝手に雪菜と仲直りしてな」
春希「こないだのはパスポートなくしたから帰っただけで、断じて雪菜には会ってない!」
かずさ「別にいいよ。春希は雪菜に会っても平気なんだろ? あたしは嫌だ。手か顔でも潰さないと雪菜に会う気になれない」
春希「……」
かずさ「もういい。今日は寝るよ。おやすみ」
春希「(どうしよう…)」 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ・フランクフルト。演奏後、控え室
ガシャン! パリン!
春希「なんだ!? なんで荒れてるんだ!?」
かずさ「どうもこうもあるか! 大恥だ! なんだ! あの流れは!? なんだ! あのピアノは!?」
春希「なんだ、って…」
かずさ「ああいう膜がかぶりまくったようなピアノは大の苦手なんだよ!」
春希「(知らなかったし、膜がかぶったピアノってなんだ?)ま、まあ。演奏がうまくいかなかったくらいで荒れるなよ。よくあることじゃないか」
かずさ「それだけじゃない! ピアノもあたしの曲にだけ合ってないんだ! おまけに、前の奴らからの口上も!」
春希「な? 何かおかしなところあったか?」
かずさ「あの皮肉もわからなかったのか!? 明らかにあたしをコケにしているんだよ!」
春希「(何もわからなかったよ…)」
かずさ「はめられた…くそ!」
パリン! ガチャン!
春希「おい! 落ち着け! まだ音楽祭は続いているんだぞ!」
(会場から漏れる笑い声)
かずさ「くそ! 後のヤツまでグルかよ! 聞こえてるんだよ! こっちは!」
春希「もうやめてくれよ! かずさ!」
・部屋の外
記者A「荒れてるね。カメラあるとも知らずに」
記者B「いい絵が撮れてる。いい気味だ」
記者A「何かあの東洋人に恨みでもあるのかい?」
記者B「いや、母親の方かな」
記者A「へえ。母親もピアニストだったのか。知らなかった」
記者B「ああ。クソビッチさ。あんたの方はなんでまたこんなビズを?」
記者A「知らんよ。高く買ってくれる御仁がいらっしゃるのさ」
記者B「どこで人の恨み買ってるのかしらんが気の毒な娘だな。恨むなら母親を恨んでくれよ、と」 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 ・ブダペストのコンサート会場控え室
かずさ「テレビでもつけるか。(ぷち)あれ? 言葉がわからないな。そういや、今いる国はどこだったっけ?」
春希「ハンガリーだよ。なんで滞在中の国名を忘れるんだ?」
かずさ「春希についていってるだけだし、列車でいくつも国境またげば自分のいる国もわからなくなるさ」
春希「一つしか国境またいでないから。自分の住んでる国の隣国くらい覚えろ」
かずさ「ハンガリーってオーストリアの隣だったのか…」
春希「はぁ…。お客様がどこの国の人かぐらいわかっておいてほしかったな」
かずさ「関係ない。ハンガリー語で演奏する訳じゃない。ピアノは万国共通だ。それに、どうせ演奏して帰るだけなんだから、ハンガリーでもアメリカでも同じだ」
春希「……」
かずさ「なんだ? 旅行気分で来た方が良かったか?」
春希「いや。悪かったな。行きたい所にも連れて行ってやれず、窮屈な思いばかりさせて」
かずさ「何を今更…あたしは行きたい所なんてないから春希に言われるがままにどこにでも行くだけだ。
春希こそ…」
春希「何だ?」
かずさ「春希こそ、日本に帰りたければ、ちょっとぐらい帰ってもいいんだぞ」
春希「なっ…!?」
かずさ「ちょっとぐらいの留守番は慣れてるさ。春希はあの人と打ち合わせするためとか、何とでも理由つけて行けない事はないだろう? あたしは雪菜たちとあんな事になって帰れないが、春希は雪菜とも一度話してるし、何より春希、一度日本に帰りたいんだろ?」
春希「な、何言ってるんだ、かずさ!? …結婚式であんな事になったのは曜子さん任せにしてた俺が悪いんだし、仕事の打ち合わせは電話で済んでいる。何より…」
かずさ「なあ、春希。あたしは春希に窮屈な思いさせていないか?」
春希「…もうよそう。この話は」
かずさ「…うん」 『冬馬かずさ、急死
2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』
「申し訳ありません!」
北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。
「あなたの責任じゃないわよ……春希君」
そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。
「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」
ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。
『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」
向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。
「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」 ・取材後
春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
すぐに事の次第も明らかになった。
大変だったよ。
浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」 「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」
「いいえ…」
春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。
「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」
「はい…」
誰にも相談できない。特にかずさには…
◆◆
「ただいま」
「遅いぞ、春希」
玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。
「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」
気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。
医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」
しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」
かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。
眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。
ベッドを一つにするんじゃなかった…
逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。
玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。
子供がいなくて良かったと心底思った。
吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
まずい
だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。
紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。
「何をしてるんだ? 早くしろよ」
急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。
居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。
居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。 結婚して一年目の二月七日。
誕生日の一週間前のこの日になって初めて、雪菜がこんな提案をしてきた。
雪菜「ねぇ、春希くん。新曲の歌詞、できてる?」
春希「……は?」
雪菜「は、じゃないよ。もう一週間前だよ?
わたしたちのいつものペースから考えて、そろそろ合宿に入らないといけないと思う!」
春希「や、だから」
雪菜「わたし、ちゃんとかずさには連絡してあるからね。それでもうスタジオだって予約してあるんだから。
準備万端だよ? ふふっ、これも春希くんの影響かなぁ。
あとは春希くんが歌詞を作って、かずさが曲を作って、練習するだけ!」
春希「いやそれ、『だけ』じゃなくて曲作りのほぼ全部……」
雪菜「さ、頑張ろう? わたしの誕生日までもう時間ないんだよ?」
春希「…………」
……重ねて言うが、雪菜がこんな提案をしたのはこの日が初めてである。
そして、これは俺自身もまぁどうでもいいといえばいいのだが、もう一つだけ。
武也も仲間に入れてやってくれ。
◆◆
とはいえ、新妻のやりたいことをできる限り応援するのは夫の務めではないだろうか。
そう脳内で言い訳して、バックパックにこれでもかとばかり食品や生活用品や、そういったものを詰める。
そしてそんな都内に不似合いな大荷物を担いでスタジオに行くと、既に待機していたかずさとの挨拶も
そこそこに早速歌詞作りに入った。
テーマは家族。愛しのお姫様のご指定だった。
春希「家族。家族か……」
かずさ「なんだ、雪菜との理想の家庭像でも想像してるのか?」
春希「あー。それもあるなぁ」
かずさ「どうせイチヒメニタローがどうとか、家は一戸建てもいいけどリスクを考えると、とか。
そんなしょうもないことばっかりなんだろ?」
春希「そ、それのどこが悪いんだよ!
どこかの誰かみたいにそれ一本で勝負できるものがないんだから仕方ないだろう。
……それより一姫二太郎なんて言葉、よくお前が知ってたな」
かずさ「う、うるさいんだよ委員長は! ったく、相変わらず安定志向な奴め。
これじゃ、出来上がる歌詞も面白みがなさそうだ」
春希「いいだろ本職じゃないんだから……。そんなこと言うくらいならお前は雪菜と遊んでろ。
そうだな、歌のお兄さんとお姉さんごっこがいいんじゃないか?」
かずさ「誰がお兄さんだ!」
春希「先回りして怒んなよ!」
何故だろう。スタジオに入ると精神年齢まで高校時代に戻るような気がする。
純粋に騒いでいられたあの頃と、色々――なんて言葉で片付けたら雪菜に申し訳なくなるくらいの頃。
そしてうちの親まで雪菜が篭絡した後で、結婚。
……本当に、愛すべき妻だ。
かずさが廊下に出て行くのを見届け、呟いた。 5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」 「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」
突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。
「…春希たちの知り合い?」
かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。
千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」
その言葉に、かずさは不意をうたれる。
急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。
「???っ…あ、ああ…」
かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」
そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。
「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。
その後の事はかずさはよく覚えていない。
たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。
自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?
いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。 「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」
「いいえ…」
春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。
「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」
「はい…」
誰にも相談できない。特にかずさには…
◆◆
「ただいま」
「遅いぞ、春希」
玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。
「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」
気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。
医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」
しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」
かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。
眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。
ベッドを一つにするんじゃなかった…
逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。
玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。
子供がいなくて良かったと心底思った。
吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
まずい
だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。
紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。
「何をしてるんだ? 早くしろよ」
急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。
居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。
居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。 春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」
曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。
武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」
宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。
朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」
雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
衣装は学園祭の時のアレ。
俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。
春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」
三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。
雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」
雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
そして。
鈴のような雪菜の声が響く————。 春希「妻……家族、か。俺になれるか分からないけど。でも……」
家庭を作るなら、小木曽家みたいな幸せな家族になりたい。小さな幸せを大切にできる、そんな家族に。
?「なれるよ、春希くんなら」
春希「雪菜?」
雪菜「うん、わたしが保証するよ。春希くんならなれる」
春希「……ありがとう。テキトーな言葉でも嬉しいよ」
雪菜「テキトーじゃないよ? 当ててあげよっか、春希くんが何考えてたのか」
春希「間違ってたらオシオキだからな?」
雪菜「えっ!?
…………、あ〜、うん。やっぱり分からないなぁ! わたしエスパーじゃないもん。
あぁ〜、怖いなぁっ! どんなオシオキされちゃうんだろうっ」
春希「楽しみにしてんじゃねえよ! かずさと遊んでろ!」
雪菜「あぁん春希くんがいじめる〜! かずさぁ〜!」
……全く。可愛いすぎるんだよちくしょうっ!
◆◆
そんなこんなのうちに一週間はみるみる過ぎ、六日目。午後六時。
俺たちの前には、いつもより余裕をもって完成した楽譜があった。
春希「本番前日に完成して『余裕をもって』って……」
かずさ「お前がなかなか歌詞を作らないからだろ馬鹿」
春希「う……、ぐう」
かずさ「ぐうの音は出すな!」
雪菜「でもやっぱりすごいよねぇっ。これで何曲目だっけ? メロディが思い浮かばなくなることとかないの?」
かずさ「ま、まぁ、あたしくらいになると言葉を見ながらピアノに触れてるとさ、湧いてくるんだよ」
雪菜「へぇ〜! かずさかっこいい!」
かずさ「そ、そう、かな。別にそんな、難しいことじゃない……」
雪菜「仮に難しいことじゃないとしても、それを何度も何度もやってこんなにいいもの創れるのは才能だよ!」
かずさ「そ……そ、かな」
春希「素人に褒められてテレるなよ、プロ」
かずさ「……。雪菜、ごめん。春希には特別コースを受けてもらうことになったから。
明日以降、春希が廃人になっても恨まないで」
雪菜「ううん、びしばししごいてあげて。わたしはたとえ春希くんが廃人になっても、ずっと愛してるから。
だから安心してね、春希くん」
春希「もっと別の状況で聞きたかったよ、その言葉」
今生の別れのように正面から抱きついてくる雪菜。
俺はその柔らかい肢体をしっかりと受け止める。両手を彼女の腰に回し、至近距離から見つめ合う。
雪菜が蟲惑的な双丘を押し付けてくる。ふわっとほんのり甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
かずさ「んんっ、ごほん」
雪菜が上目遣いで見上げてきて、甘えるように微笑した。そして瞼が伏せられ、顔が斜め上に向けられる。
俺はゆっくりと唇を近づけ、躊躇うことなく雪菜の心に触れた。
雪菜「んっ……ふ、ぅ……んぅ……ちゅ、ちゅ……」
優しく表面をすくうように。
時間にして数秒。俺が何かに—ーいや、かずさに遠慮して唇を離すと、雪菜は俺の胸に顔を埋めた。
雪菜「いってらっしゃい、春希くん」
春希「……どこにだよ。同じ部屋で練習するんだろ」
雪菜「すぐそこにある戦場に、だよ」
雪菜が顔を埋めたまま腕だけで示す。その先には、少し顔を赤くしたかずさが鬼の形相で立っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています