つまりさ、方法的懐疑を用いて人間の感覚とか
知覚や思考の中に現れてくるすべての事象を、一旦棚上げして
そうして「思考する我」「精神的存在としての私」を抽出してくるわけだけど
この際に疑いの対象となったものの中心は通常俺らが久弥と呼ぶものだろ?
久弥の存在性は、俺が日常そう思っているほど堅固なものじゃなくて
それはいくらでも疑いうるものだってことだよね?