日本保守党なるものが唱える「保守」とは、一言で申せば擬似的宗教にほかならぬ。
いや、正確に言おう。
それは「保守の外皮をまとった、情念の政治」である。
安倍晋三というひとりの政治家を「烈士」とまで持ち上げ、その死を契機として何かしらの魂魄を継承せんとするその語り口には、理(ことわり)もなければ、歴史もない。
およそ保守主義というものは、伝統の重みを噛みしめつつ、社会の矛盾を内在化しながら、忍耐と慎慮によって秩序を維持する思想である。
それを「1億円寄付したから偉い」とか、そんな類のセンチメンタリズムで動員しようとするのは、もはや保守ではない。宗教団体の伝道である。
そもそも、保守とは何か。
それは、思想ではない。
姿勢である。
世の中の急進的変化に、「待てよ」と立ち止まる精神。
社会の安定を、情緒や愛国の名のもとに破壊しようとする扇動者に対して、
「それで本当に国がよくなるのか」と問う冷静さ。
百田や有本が叫ぶ「憂国」には、反省がない。
まことの保守とは言えぬ。
日本は、すでに「理念」で治まる国ではない。
政治も、経済も、言論も、劇場化し、空疎な物語が国民の心を支配している。
「安倍さんが正しかった」
「目覚めた国民が未来を変える」
そういった幼稚な幻想にすがることこそが、国家の衰退そのものである。
本当の保守とは、「絶望から出発する冷徹な思索」である。
そして今この国に欠けているのは、沈黙と内省と死を見つめる哲学である。