私はね、長井のこの文章を読んで、まず感じたのは怒りではない。
寒気です。
なぜなら、そこには思想がない。
あるのは、思想を装った自己陶酔の演技だけだからだ。
彼は、事実かどうかも定かでない「他人の罪」を掲げ、それを自ら背負うという芝居を打つ。
だが、その芝居の観客として彼が選んだのは、被害者でも、社会でも、法でもない。
沈黙する死者。靖国の英霊である。
これは卑怯だ。
英霊は語らない。
反論しない。
評価もしない。
だからこそ、彼らは、自己正当化を欲する者にとって最も安全な聴衆になる。
長井がやっているのは、反省ではない。
贖罪でもない。
ましてや信仰などでは断じてない。
それは、「道徳的に苦悩している自分」という像を完成させるための自己演出だ。
しかも彼は、その演出の中で、軽薄な嘲笑記号を散りばめ、厳粛さと下品さを無自覚に混在させる。
これは感情の振幅ではない。
言葉に対する不誠実である。
本来、保守とは何か。
それは、語るに値しないことを語らず、扱いきれないものを軽々しく持ち出さない、その節度にある。
ところが長井は、最も重い象徴を、最も軽い動機で振り回す。
これは愛国でも反日でもない。
ただの自己中心的道徳ごっこだ。
私はこう言いたい。
靖国を使うな。
英霊を語るな。
まず、自分の言葉に責任を持て。
思想なき道徳は、必ず芝居になる。
芝居になった道徳は、必ず他者を踏み台にする。
長井の文章が示しているのは、その最も卑小で、最も見苦しい実例にほかならない。