今日は、現代社会に潜む“政治的カルト”について、ちょっとディープに語ってみたいと思います。
ええ、例の“安倍信奉”にハマった方々の一人、ネット掲示板でよく見かける“長井”さんという人物の言動を素材にね。
…さて、政治的カルトって何だろう。
端的に言えば、政治家を政治家としてじゃなく、“人格神”として扱う態度のことです。
長井さんという人物、こう書いてます。
『俺は10万人側、ねこたんは400人側』
――これは安倍元首相の国葬に参列した人々を“正しい日本人”として、美化し、参加しなかった人間を“裏切り者”として線引きするわけだね。
まさに“殉教と選民”の物語です。宗教の構造そのもの。
つまり、安倍さんを“この国を救ったがゆえに殺された預言者”として語り、それを悼まない者を“人非人”と断じる。
こんな風にも書いてる。
『安倍さんに哀悼すらできない全日本人の5%に入らなくて良かった』
…もう、信仰告白だよね。
僕が強調したいのは、この構造の危うさです。
まず、“善と悪”が極端に二項化される。
例えば、『ねこたんは朝鮮半島系だから安倍さんを叩く』なんて書いてる。これは“日本人=安倍支持者”という妄想に依存した純化思想。
しかも、自分に反対する者は“敵性民族”に仕立て上げる。まるで戦時下の国民動員装置と同じ構造ですよ。
次に、“批判不能性”の問題がある。
『お前に正当な批判をする権利など無い』とか、
『テロの共犯者だ!』とまで言う。
これは政治的対象を“神聖不可侵”にすることで、批判=冒涜=テロとみなす。
要するに、“安倍批判=国家への冒涜”という妄想を抱いているんだ。
さらに、“被害者なき物語”への無関心。
統一教会による霊感商法の被害者や、モリカケ問題、桜を見る会、パーティー券裏金問題については、全部“ノーコメント”。
それどころか、
『壺からの指示通り』なんて皮肉を受けても、何の応答もない。
これは、“内集団への同情”は強くても、“外集団の被害”には冷淡な態度、つまり“情動の選択的配置”が起きてる。
カルトがよく使う手法です。“敵と味方”の物語に感情を集中させて、それ以外をモノ扱いする。
…じゃあ、なぜこんなことが起きるのか?
簡単に言えば、現代の“居場所のなさ”です。
失われたコミュニティ、崩れた社会的連帯、自己を投影できる対象の不在。
そうした空白に、“安倍晋三”という名前が投影される。
これは、もはや政治でも思想でもない。“情動の神殿”なんだ。
もしSNSで長井さんのような人に出会ったら、怒る前にまず、“その人の孤独”に目を向けてほしい。
怒りではなく、理解から出発してほしい。
ただし、同調しろとは言わない。
わたしたちが必要なのは“構造を見抜く眼”と、“巻き込まれない距離”です。