ずっと以前、国境なき医師団というのに寄付しようと思った事があるんですよね。
理由は全く覚えてない。結果は寄付しなかった。この理由もはっきりしない。
覚えていることは一つだけ。
Q;「同時に瀕死の人が運びこまれて来たとき、どちらを先にしますか?」
A;「助かる可能性が高い方です」

間髪を入れず即座の返答だった。女性の医師だった。敵味方、性別、年齢を問わずだと。
毅然とした意志とはこういうものなんだろうと圧倒された。
あのゆるぎなさは忘れられない。

寄付しなかったのも、ただの共感と、なにがしかの寄付行為で通り過ぎて、
自分の善行の証拠を今作ってよい課題ではないと思ったのだと、思う。

「思ったのだと思う」事自体、既に、テキトーの証明で、
どこまでいっても「アレ?な自分」なんだけど。

自分を取り囲む周りの状況も
「命の選別」とか「トリアージ」とか「人権」とか「愛」とか「生まれる」とか「終末」とか、
「命の問題」とか「人の生の問題」とか、とか、、、そして「自殺」とか・・
全部、タダノ「材料」にして、あれこれ、あれこれ、コーフンばかり。

・・・ツイッターという「自分いい人製造機」に頼りすぎ・・・

戦場と、コロナ日本とは違うから、が理由になっているのだろうけど、
なら、尚更、其々別々に正確に整理しながら「知っていく」しかない・・

少し前から、一つ一つの課題を、少しづつ文字にしてる人達にも出会う事が出来ている。
落ち着く。
それでも、ツイッターデビューする気にはなれないな。@はあるけど。