逆転ストリップ [無断転載禁止]©bbspink.com
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ストリップ全盛期の頃、逆転ストリップという出し物があつた時の話。
要はまっぱだかからスタートして段々着ていくっていう奴だが、
私が見に行った時は少しハプニングがあって、音楽スタートでまっぱだかの綺麗なお姉さんが登場。踊り始めようとした時、観客同士で言い争い。お姉さんが自分のせいかと思ってその場に立ち尽くした。まつぱだかでパイパンの綺麗な子が立っている姿は実に美しかったなぁ。
かぶりつきだったので目の前10cmで見れた。クリトリスもはっきり見えた。しかもお姉さんは泣いているのである。感動的な15分位だったなぁ。 世の中の最底辺に住む人生の敗残者諸君よ
このスレのなかだけがキミたちの生きてい
ける場所だ
エバルもよし、自慢するもヨシ
所詮世間では相手にされないのだからな
一生そうしていなさい
サラバだ 世の中の最底辺に住む人生の敗残者諸君よ
このスレのなかだけがキミたちの生きてい
ける場所だ
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所詮世間では相手にされないのだからな
一生そうしていなさい
サラバだ 世の中の最底辺に住む人生の敗残者諸君よ
このスレのなかだけがキミたちの生きてい
ける場所だ
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所詮世間では相手にされないのだからな
一生そうしていなさい
サラバだ 1.過去のまな板ショーのログを読んでいたら、当時の思い出が、汚泥に浮かんでくるメタン ガスのようにプクリプクリ
と浮かんでは弾け、そこからの匂いや感覚が微かに、やや色褪 せてはいるが、心の奥にあるやや重苦しいがなんだか
甘酸っぱくもある記憶が蘇ってきた。 大学に入っばかりで、まずは、履修科目を選び時間割を作り、講義に出てみたが、
あまり 興味も持てず、それまで持てなかった自由な時間を持て余し始めた頃、ふと、泉ピン子が 売り出したニュース
再現番組で、吉野ミュージックというストリップ劇場が手入れを受け たというのを面白
おかしくレポートしていたのを思い出し、口がカラカラになってバクバ クしながら、
初めて、難波にあったナニワミュージック?に入った。 2.オドリコさんが、日舞や洋舞を2曲ほど踊り3曲目くらいから脱ぎ始めて下着姿になると 舞台袖に下がり、
張型が入った小さな籠をもって、再登場し、舞台に寝そべり、自らの胸 や、ワレメを触り始めた。又、曲が変
わると、下着を脱いで、全裸になり、天狗の鼻を抜 き差しし始めた。曲が変わると、それまで何をしていたか
などお構いなしに、突然、立ち 上がり部隊の袖に引っ込んで行った。次の曲で、胸は出したまま、下には薄い
レース様の 物を纏い、客の前でヒザをパカパカして、顔はあらぬ方を向けていた。 こんな感じで、演目は進ん
でいき、最後トリになった。 オドリコさんは、今までと同じように1・2曲踊り、袖に引っ込み、今までと変
わり映え しない籠を持って出てきた。でも、客席の方は少しザワついていたような? 私は、舞台のカブリツキ
に座っていた。周りはくたびれたスーツを着た中年のおじさんゃ けっこうな年寄りが顔を見合わせながら、
何かを期待するような素振りだった。 当時、18才の当方とオドリコさんの目が合うと腕を取られ、女とは
思えぬ力で舞台へ 引っ張り上げられた。何が何だか判らず、舞台で立たされると、いきなりバンドを緩め られ
、チャックを引き下ろされた、 「エッ、何」、突然の事でパニック、すると、舞台に寝かされ、今度はパンツに! 3. 必死で抵抗したが、周りのおっちゃんが「いいなぁ、オレが代わりたいくらいや」 抵抗の甲斐なく、モロ出し
にされた。しかし、私の分身はそんな状況にも普通の 状態で縮こまりギブアップ状態にはなっていなかった。それを
見越したように、 オドリコさん、やおら、ゴムを口に含みわたしの物に吸い付くように覆いかぶさって 舌を使い始め
た。とたんに大っきくなる我が分身!もう、全く持ち主とは別の生き物に なり、スタンバイ。でも、持ち主は慌てふた
めき快感も今一つ・・・ 充分立った状態となり、オドリコさん、やおら、当方の腰にまたがり、あそこを近付け ズッポ
リと納めてしまった。自分自身は何が起こってるかとパニック!しかし、分身の 方は親の心子知らずというか、かなり
の時間、抜き差しに対応していた。ズキュン、 脳の中を撃ち抜かれ、大きく痙攣、ドバっと。 これが、舞台、初体験
でした。
こんな具合で、ストリップ(マナ板ショー)の自分史を書いていこうかと、皆様、お赦しいただけますでしょうか? 4.そんな具合で、ストリップ(まな板ショー)の洗礼を受けたのだが、最初、なんか辱めを受けてしまったという
思いが強く、2か月ほど行けなかった・・・
でも、そこは、若いので、精力は有り余り、オナニーでは、当然満足が出来ない。
当時は、ソープとは言わずトルコ風呂だっけ。
しかし、関西ではトルコの料金は高く2・3万円(これは、関東のトルコ代金より2割くらい高かったと思う。
当時、親父が買ってくる週刊誌の知識)
まぁ、関西ではチョンの間があって、かなり安くできたそうだが、そんなことは知らないウブウブ!それに、
やりてババぁと交渉するなんていう高等技など使えるべくもなく・・・、(今も使えないかも 気弱な奴や)
アルバイトもそれほど出来なかったので、カネがない! 5.性欲には勝てず、劇場通いが始まった。
それでも、相変わらず口はカラカラ、心臓バクバク、これは、かなりの期間、続いたような気がする。
行った所は、前述のナニワミュージック、千日前ミュージック(確か、ナニワとは近かったと思う?)
吉野ミュージック、尼崎ミュージック、大阪の地下鉄が新線拡張の真っ最中で、かなり遠い所に行け
るようになり、たしか、潮見橋にもあったかと?それから、堺にも行ったっけ?
京都の東寺にも遠征、でも、伏見には行けなかった。奈良はまだ無かったような?
料金は、5千円位だったか、関東より高かった。
吉野や東寺は、特別興業時で8000円の時が結構あった。
十三は名門らしくまな板ショーの開始はかなり遅かったと思う。十三に行った時、友達から教えても
らった飲み屋のドテ焼きが美味しかった!癖になる、藤本義一もよく通ってたようだ。
劇場通いを始めた頃は、まな板ショーはトリ前とトリの2本くらいだった。勿論、日本人だけ。
半年ほど、舞台に上がる人が少なく、自分から舞台に上がればほとんどOKだった。
劇場側は、まな板ショーが客を呼ぶと判ってきたので、本数を3本・4本・ダブルまな板と、まな板
ショーが、だんだんとメインの出し物になっていった。儲かるのであれば、ドンドン、エスカレート
するのは当たり前! 6.まな板嬢もドンドン増えて、質も向上の一途。客にとっては、嬉しい限り。30代半ばから20代へ!
この頃からじゃんけん倍率、赤丸急上昇!!
とは言っても、4〜6人がジャンケンポン。まだまだ、統制は効いていたっけな。
でも、この頃は、ジャンケンに参戦してはいたけど、確率も必ず一度くらいは出来ていたけど、名前を
覚えてオッカケするような嬢は出来なかった。
尼崎はほかの劇場と違って、回転舞台やデベソが低くて、お客さんとの距離が近かったかな。嬢に話し
かけやすい所だった。アッ、そうそう、思い出した。2時くらいに入場したんだけど、Vオープン時、パ
ンツ履いてオープン。なんで!!聞いてみたら、嬢は、後ろの方に立っているスーツ姿の男たちにアゴを
シャクって、目配せしてた。 2〜3ど喰らい合った。
尼崎ってけっこうワイルドな土地柄でスジモンの影響が大きい場所がらで、ポリスも活動が他よりは、キツメ! 7.アッ、そうそう、今書いているのは、1973年位からの話だよ。四十数年前からの話。
吉野ミュージックは、テレビで放送されたからか、ポリスから重点要チェックされてたみたいで?
何度も手入れを受けてるよ。終には、確か閉めちゃったかな。
ここの舞台は、結構高くて、一旦椅子の上に立ってから、ヨッコラしょと上がんなきゃいけなかったなぁ。
京都の東寺は、ほんと、国宝の東寺のすぐ傍にあったような?なんでこんな所で、よくこんな劇場を建て
たなと?
内装は一番豪華だった、名古屋の銀映よりも。それで、ビックリしたのがゴンドラが2台もあった。
歌舞伎町にモゴンドラはあったけど一台で、歌舞伎町の劇場が出来たのは、5年後か?
劇場には、昼の2回目くらいから3回目にかけて2回り滞在。マナイタ嬢が増えたおかげで、
普通、2回くらいは舞台に上がってたっけ? 9.東京に就職試験で出て来た時、試験を受け終わって、帰ろうと思ったが、新幹線の乗車時間には少し
時間があったので、新宿d映画でも見ようと思い降りたが、映画館に行く途中で新宿OSの看板が目に
入った。これは、入るしかないと看板を目指した。複雑な5叉路になっている歩道橋の橋桁の横道を少し
入った所にそれはあった。細い入口を入ったがガラスをはめ込んだ壁の向こうにに香盤表が貼ってあった。
当時、オドリコさんの名前をあまり知らなかったので、知った名前も無かった。
入口の奥にテケツあり、料金払い、半地下になっているドアへ階段を下りた。ドアを開けると、関西の劇
場より明らかに狭い、置かれている椅子もベンチのようなもので貧弱としか言いようが無い。
舞台を見ると、30代前半のスリムな良い女が、客の手を引いて布団から起こしているところだった。
関西では、見当たらない体形のひとだったのを今でも鮮明に覚えている。その嬢はトリだったようで、
オープンに出てきて、引っ込んだら、休憩になった。トイレに入ろうと狭い椅子の間に足をぶつけながら、
トイレにたどり着きドアを開けると、公衆トイレにも負けない匂いが鼻を突いた。モー、サイテー!
再び、場内が暗くなり開演となった。 8を上げ忘れてる。
前後になってしまいますがお許し下さい。
8.前にも書いたけど、この頃はオドリコさんの名前を覚えて、オッカケはしてなかった。
やっぱり、オドリコさんの年齢が自分とこ比べると、かなり上だったのと、シャイな性格で、
積極的にオドリコさんに話し掛けることが出来なかったなぁ。
それでも、何度か上がったオドリコさんだと、向こうから声を掛けてくれるんだけど、やはり、恥ずかし
くて、モジモジしてたので、会えば声を掛けてくれてたけど、仲良くは出来なかった。今から考えると、
もったいないことした。 10.幕開けはやはり日舞、日舞のオネエさんにしては、年が若かった。関西と同じような香盤が進み、5番目に
出てきたのは、欧米系の白人だった。演目は、まだ外人本番は無く普通のベッドショーだった。関西では、
外人と言っても金髪に染めてオッパイが少し大きいオネエさんしかいなかった。それで、大興奮だった。
6番目のオドリコさんは本番だったかな。はっきりとした記憶はない。ただ、ジャンケンは無く舞台に上
がったモン勝ちだったような・・・
それで、いよいよトリのオネエさん、私は、舞台に上がるつもりでいた。しかし。さすがにジャンケンが
あった。3人位だったか?相手のおじさんは前回も失敗していたようだ。一人目の時は負けた。無事、事
が終わり、二度目のジャンケンになった。しかし、負けてしまい、目的を達したおじさんは嬉々として、
そのお姉さんの共演者となった。
私は新幹線の時間がある為、後ろ髪をひかれる思いで席を立った。 11.そんなこんなで、東京に出てきた私だが、会社の研修機関の3か月間は、わき目なんか振る間もない、
あわただしいが、重苦しく緊張が連続した時間が過ぎていった。
私は、大学の在学中に父を亡くしていたが、母の周りには、父の親兄弟・親戚しか居らず、元々、関東の出身
だった母は、生活のための仕事も見つけにくかったため、母の兄弟を頼って、既に東京に出て来ていた。
戸惑いと不安と少しの期待が入り混じった新人研修が終わった後、母と暮らし始めた。
理不尽な社会人1年目が始まった。なんでか気ばかり焦って、追いまくられて、そのくせ、何も得られていない
無間地獄が続く生活。よく怒られていたという記憶しかない。しかし、そんな状況に、最初はビクビクしていた
のが、それに麻痺してきたのか、洗脳されて行ったのか、世に云うところの、オトナに、醜く変身を遂げ始めて
いたのか。夕暮れに舞う一羽の蝶のような不安を感じて。 12.こんな状況の下、母と暮らし始めたので、劇場巡りの方は遠のいていた。
しかし、自分の仕事場に通うのに、時間がかかり過ぎ、残業が何日も続き、家に帰っても睡眠時間を充分取れな
いまま、ボーとした頭で会社に通わねばならなかった。当然、そんな状態だから、ミスも増え、周りが、刺々し
い空気をを私へふりまいた。
仕方なく、少し油断をすると、足の踏み場も無くなるワンルームを借り、独り暮らしを始めた。
状況は、改善したと云う程ではなかったが、多少なりとも落ち着くことは出来たようだ。
それまでは、休日でもふさぎ込み、家の中でほとんどの時間過ごしていた私だったが、雨がザーザー降ってる中、、
駅の出入り口付近の階段の傍で、雨宿りを小一時間していると、それまでの薄暗さとは違うささやかな変化を
見せたとき、思い切って、駅の外に飛び出して行く位には・・・ 世の中の最底辺に住む人生の敗残者諸君よ
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