何よりあの頃とは美的感覚が変わったこともあるんだろうね
海外作家の作風は当時から今に至るもハミルトン風のソフトフォーカスかヌーディスト的な開放感のものに集約されるだろう
で、同じ頃の和炉写真は子供なのにすごく濃い化粧にしてレースのカーテンみたいなものに巻いて撮ったやつとか(彩文など)
前髪パッツンにして身体に白粉塗り込んでわざわざ着物着せてから脱がして撮ってたり(会田我路とか)
言うなれば「人形振りor大人振り」の造り込んだ演出が突出していたようだ
英知出版から石川氏も参加したオムニバスが出てたけどそのあたりくっきりと作風が違うのがわかる
清岡、力武にしてもナチュラルっぽく見えても「髪型が画一的でダサい」とか「どうせ脱がせてしまうだけの服」だとか
今の目線だと演出の迷走がいくらでも読み取れてしまう
特に和装のいでたちのものはモデルの個性を殺して人形化&擬似成人化してしまうことで日本的なウェットなエロティシズムを
出そうというコンセプトだったのかもしれない(70年代なら大人の女は巨大なツケマツゲしてた頃だ/今もそうか)
子供ヌードにある種の倒錯を見出してた確信犯的演出なんだろうが「背伸びして大人メイクしてる子供がエロい」とか
「感情の無い人形のようにされるがままの子供がエロい」とかプロデュースサイドの思い込みが先走って斜め上に行ってた感じ
その一方で素人の炉写真はメイクもへったくれもないわけだから、「こちとらアマじゃないぞ」というジェスチャーとして
わざとらしいぐらいの(多分に誤った芸術理解に基づく)金の掛かった仕込みが必要だったのかもしれない
モデル経験の無い子を専ら縁故ルートで採用してたと思うので普段から日焼けに気遣うようなこともなかっただろうし
素朴で居ずまいが自然に見えるモデルは今の基準から言うと「地味な小太り」と分類されてしまうだろう

石川作品は欧米作家のスタイルをトレースするような作風ではあったけれど
日本人好みのモデル選びの巧さと素直な生態観察の眼差しがあったことが他の作家とは違ったね