【不敬】皇族でオナニーするヤツらってさ [無断転載禁止]©bbspink.com
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ナポレオンがオナニー依存症だったて聞いたんだがwww 眞子様や佳子様、愛子様でオナニーとかあまりに畏れ多いんで
想像さえしたこともない。姉貴の少女漫画をこっそり読んで以来
十二単と黒髪フェチなんだが皇族でなくても貴族のお姫様で妄想
がかなえられたら十分だよ。武家が台頭して下剋上の世になって
から貴族の女性は身分卑しい足軽どもに犯されたり、将軍や大名の
側室にさせられたりしたからプライドずたずただな。 江戸時代には幕府批判はご法度とされたが、
皇室に対しては特に不敬罪が存在せず、
称徳天皇と道鏡、建礼門院徳子と源義経が
身分の差を超えて愛し合うような内容の
川柳やエロ文学が好んで作られたという。
鎌倉時代の武将、高師直が塩冶高貞の妻に
懸想して高貞の妻の入浴シーンを覗いた上に
旦那さんに謀反の罪を着せて奥さんを奪い取ろうと
計画して失敗した話は有名だが、絶世の美女と伝えられる
この女性は宗尊親王の孫娘とか後醍醐天皇の側室だったとも
言われてるんで、身分の高い女性といいことしたいという
男の願望は今も昔も変わらないようだ。 道鏡に根まで入れよと詔
道鏡に崩御崩御と称徳言い
義経も母をされたで娘をし
門院は入水のほかに濡れ給い
門院は赤貝にでもなるところ それでも皇族をオカズなんてあり得ない
せめて首相夫人だろ
それか社長令嬢な
もっと下がって女教師とか上級生、OGあたり 男は上淫を好み、女は下淫を好むとか
上品は下淫を嗜み、下品は上淫を望む
というから、身分の高いお嬢さんと身分の低い
貧乏男のセックスとか貴族の女と武士の男の
セックスは激しく燃え上がると思う。 平成初期に皇族になった人の弟って、お姉さんが皇族になる前どうしてたのかな?
7歳違いで、思春期まっただ中の中学時代に姉は大学生。
父親が勤める大学の、広いとは言いがたい教職員住宅に一家で住んでいたから、もしかしたら裸になった姉の姿を見る機会があったかもしれない。
姉の使用済み下着をチェックしていたかもしれない。
そうでなくても干してある姉の洗濯物は嫌でも目に入るだろう。
それで何も行動を起こさずに済んだのだろうか。 5、6年ぐらい前だったか
週刊漫画TIMESに在原業平と清和天皇の
皇后、藤原高子とのスキャンダラスな関係
を描いた漫画が連載されていたな
帝や皇族の不倫やセックスが描かれた
なんとも不敬な内容だったような 室町幕府三代将軍の足利義満は天皇や宮さまの妻に
手を出しました。義満は後円融天皇の宮人三条厳子を犯して
後小松天皇を産ませました。後小松天皇の後即位した称光天皇
と後花園天皇も義満の孫で彼の血を引く天皇は幕末まで続きました
と太田龍氏が言っていましたが、果たして真相はいかに。 18歳の足利義満が25歳の三条厳子を手籠めにする
場面って年上好きの男には堪らん話だな。 漏れは眞◯さまの御オナニが見たひ
神がマンズリなさるところとか見たら
脳汁プシャーだな 聖武天皇は56歳まで生きたのに27歳以降子作りしていない
から同い年の光明皇后は欲求不満だったはずだ。30歳の藤原仲
麻呂は35歳の叔母の光明皇后と光明皇后の娘で仲麻呂の従妹に
あたる18歳の孝謙天皇を交えて母娘丼プレイをできる状況にあった
と俺は想像している。 孝謙天皇は初め仲麻呂が好きだったけど
年をとってから道鏡を好きになるんだよな。
孝謙天皇を始皇帝の母、藤原仲麻呂を呂不韋、
道鏡を嫪毐に譬えたことから道鏡巨根伝説が生まれた。
これマメな。
それにしても壇ノ浦野合夜合戦記が終わった後の義経は
兄の頼朝に追われて悲惨な死に方したな。俺が義経だったら
嫪毐を真似して平徳子との間に男の子二人作るね。徳子が産め
ないときは時忠の娘に産ませるまでだけど。天皇の妻であり
母である4歳年上の若い未亡人を犯すということにロマンを
感じない男がいるかっての。
まず鎌倉を攻めて頼朝を殺し徳子が産んだ男子を>>10の話の
締めくくりのように源氏の棟梁にする。
で、次は後白河法皇を脅して徳子が産んだもう一人の子どもを
天皇に即位させる。チンギスハーンになったと言われる男なら
それぐらいのこと朝飯前だろ。 塩冶高妻貞出浴図 後嵯峨天皇の曽孫であり後醍醐天皇の側室から
後に塩冶高貞に嫁いだと伝えられる弘徽殿の西台。高貞は初め
南朝方だったが後に北朝の足利尊氏に従った。彼女の美貌を耳にした
女好きのばさら大名、高師直は彼女に言い寄りさらに入浴中の裸体を
覗き見た上に彼女を我が物にすべく夫の高貞に謀反の罪を着せて殺そう
とするが、弘徽殿の西台は師直に貞潔を汚されることなく、夫や幼い
息子たちと運命を共にしたと伝えられる。仮名手本忠臣蔵の顔世御前のモデル。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/e1e/7521/20080427_502955.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/201103/13/04/b0044404_17515918.jpg 壇ノ浦夜合戦記 頼山陽または塙保己一の作と伝えらえる春本(下は書き下し文)
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/dannoura.htm
栄華をきわめた平家一門は源氏との戦いに負け続け、壇ノ浦の合戦で安徳天皇と神器を抱
いた平時子(清盛の妻、二位尼)とともに入水して滅びたが、源義経と彼の家臣たちは
建礼門院平徳子や女官たちという死に損なった女たちを海から救い上げた。高貴な彼女たちは
自分より身分の低い敵方の武将たちの愛人にさせられた。義経は徳子の美しさ(特に肉体の)
の虜になり、亡き高倉天皇の妻で先帝の母という徳子の尊い身分と一族を失ったショックから
立ち直れない状況に気を配りながらも、平家でまだ生き残っている徳子の甥、維盛の命と引き
換えに徳子の貞操を要求し、ついに二人は結ばれる。初めは恥じらっていた徳子だが、
義経の逞しい肉体と巧妙なテクニックに流され今まで味わったことのない女の悦びに
目覚めてしまう。
http://auctions.afimg.jp/item_data/image/20150902/yahoo/n/n153811214.1.jpg
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr130/auc0303/users/5/8/8/9/shokokita-img479x600-1363951547kpn8cm31029.jpg 着物フェチの俺がもし平安時代や室町時代に生れていたら
十二単に身を纏った公家の姫さまに手を出してみたかった
壺装束を着て遠出する高貴な女性をレイプして妊娠確実なぐらい
中出ししまくりたかったなあ
天皇家の姫さまとなるとはさすがに畏れ多いけど
でも斎宮だった皇女様もしょっちゅう男に犯されて解任されてるしなあ
戦国時代の公家は零落してて地方の大名を頼って生活していたから
その大名が滅ぼされた際、敵方の雑兵が公家の妻や娘をレイプする
みたいな性の下剋上はかなりの頻度で起こっていたと思う
小〇君が〇子様と将来十二単着衣プレイをする可能性
がゼロとは言えないと思うとなんだかうらやましいな >>27
俺は後小松天皇はきっと足利義満と三条厳子の不義の子の
確率が高いと思う。しかし後円融天皇があまりにもお可哀想だ。
後醍醐天皇のように性欲絶倫で子だくさんな天皇も多い(記紀に
よる第12代景行天皇は80人の子どもがいたと伝えられている)から、
仮に北朝の血筋が途絶えていて、明治天皇が実は自称南朝のどこの
馬の骨か分からない人だったとしても絶対に神武天皇の血を引いて
いないとまでは断定できず、万世一系は案外保たれているのではないか
と思う。義満だって清和源氏だしね。 ✕十二単に身を纏った
〇十二単を身に纏った
うわあ恥ずかしい… 普通に皇族本オカズにしてる。主に佳子さま。愛子は無理。普通に可愛いと思うけど対象にはならん 源頼定(977〜1020)平安時代中期の公卿 為平親王の二男
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%9A
源頼定は村上天皇の孫に当たる人物で、一条天皇や三条天皇とは従兄弟に当たる。
一条天皇の時代、東宮だった居貞親王(三条天皇)の尚侍、藤原綏子と密通して彼女を
妊娠させたため、このことを激しく怒った三条天皇の在位中は、昇進はおろか昇殿も許されなかった。
綏子との間に生れた男子は大僧都頼賢ではないかと伝えられている。
また、頼定は一条天皇が亡くなった後、天皇の女御で孤閨を託っていた藤原元子と密かに
情を交わし始めた。元子の父、藤原顕光はこのことを知って腹を立て、元子の髪を切って
出家させたが、その後も二人の関係は続き、元子は頼定との間に女子を二人産んだ。
彼は越中守・橘輔政の娘を正室としていたが、彼の女性関係については、天皇の「妻」だ
ったこの二人の女性との密通騒動のほうが有名である。 三条天皇と藤原綏子との関係が甥と叔母というのが
なんかすごくいやらしくて萌えるんだが、綏子の異母兄の
藤原道長のやったことがこれまたすごいもので、女房装束を
無理やり脱がせておっぱいを捻って母乳が出たことで妊娠が
判明したという話がとてもエロい。 >>4
>武家が台頭して下剋上の世になって から貴族の女性は
>身分卑しい足軽どもに犯されたり、将軍や大名の
>側室にさせられたりしたからプライドずたずただな。
一概にそうだとは言えないと思う。
案外天皇よりむしろ身分が下の男のほうが、自分を女神さま
のように崇め奉って正妻待遇で敬ってくれるから、
彼女たちにとっては幸せかもしれない。
天皇の後宮に入っても天皇は后妃を何人も侍らせているから
天皇の寵愛を独占するのは難しい。
新田義貞や塩冶高貞は後醍醐天皇から妾さんをもらっているし、
高師直は天皇の後宮に入る予定だった二条道平の妹を浚っているが、
女の立場からすれば、天皇よりもこういう地位が下の男に嫁いだほうが
源頼定と藤原元子のように夜の営みの回数も多くなって
子供も生まれて円満な夫婦生活を送れるはずだ。 しゅ子内親王(高松院)(1141〜76)は二条天皇の皇后(しゅは女偏に朱)
鳥羽上皇の 母は藤原得子(美福門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
同母兄の近衛天皇が亡くなった後、
保元の乱の直前、甥にあたり母美福門院のもとで
育てられた守仁親王(二条天皇)の妃に立てられた。
守仁親王の父後白河天皇は近衛天皇から二条天皇への中継ぎとして即位させられた
だけだったので、保元の乱が終わり崇徳上皇が流罪になるとまもなく譲位させられた。
二条天皇は英明な君主と評され父後白河上皇との仲はうまくいかず、上皇を排除して
自ら親政したことは有名である。
しゅ子内親王と天皇の間には子どもは生まれず、天皇は彼女の他に多くの女性を后妃に立てた。
藤原忠通の養女育子の入内が決まるとしゅ子は院号宣下を受け事実上皇后の地位を追われる
ことになった。二条天皇は1165年に六条天皇と二男一女を残して23歳で亡くなった。
この後政局は後白河上皇(姝子の異母兄にあたる)が主導するようになり、1168年、
上皇は六条天皇を譲位させ寵姫の平滋子(建春門院)が産んだ高倉天皇を即位させた。
しゅ子は院号宣下を受けた後は仏道にひたる日々を送り、1176年に36歳で亡くなる。
死因は食欲不振・痢病と発表されたが、それは誰にも信じられなかったという。
何の病気の噂もなかったしゅ子が急死したことに公卿の吉田経房は不審を抱き
日記『吉記』に記録した。
九条兼実の日記『玉葉』によると、しゅ子はどうやら1171年頃天台宗の僧澄憲と密通し
1172年に澄憲の弟子とされる海恵を産んだようである。また澄憲の娘とされる歌人、
八条院高倉が生れた頃に亡くなったことについて、角田文衛はしゅ子が高倉を産んだとき
早産だったため大量出血で亡くなったのではないかと指摘している。
天皇の未亡人、しかも皇室出身の女性、治天の君の妹を二回も妊娠させた
このエロ坊主が羨ましい。 (二行目)
鳥羽上皇の
→鳥羽上皇の皇女
誤字・脱字が多くてすみません。 中学の時、大和和紀の「あさきゆめみし」で
天皇の後宮に入ったか入る予定だった女性が
光源氏と睦み合っていた場面で一発抜いた記憶がある。
たぶん、朧月夜(内侍の君)とかいう女性だったかな。
ほかにも、手塚治虫の「火の鳥」にも木曽義仲が入京した後
家来が京の高貴な女性を犯しまくるシーンがあったそうだ。
ああ、高貴な女性と一発やりてえ。 平安時代の公家の娘等は栄養失調で外に出る事もないから
青白くて不健康で現代の感覚では無理。 現実の皇族や公家はブサイクで貧弱体形で
結局イケメンの皇族や公家、美人のお姫様は妄想
の中だけにしかいないんだよな(;_;)
失礼だが三次元はゴミ、二次元は最高というのは
彼らにも当てはまるんだな
絵空事とはよく言ったものだ 高師直が皇族や公家の女性に手を出して、皇室出身の
人妻(そもそもこんなことありえるか?)に懸想して
その旦那に謀反の罪を着せたり、太政大臣の妹にまで
手を出して妊娠させた話とか
源頼政が鵺退治のご褒美に女房ひとりもらった話とか
道鏡が女帝と枕をともにした話とか
庶民の天上人に対する淫らな欲望はいつの時代も変わらないもので
武家政権の力が強くなって朝廷の力が弱くなってから
後世の人がオナニーのおかず用に事実以上に話を膨らまかしたり、
なかったことをでっちあげたりして作ったものも多そうだね
壇ノ浦の戦いで源氏の侍たちが熊手を使って
海に飛び込んだ平家の女房たちを引き上げる絵を見て
こいつら絶対助けた女を自分の妾にするつもりだろ?
と中学生時代の俺は思ったが、江戸時代の人も同じことを
考えたんだな でも、戦争続きで長いこと風呂に入ってない
から体臭強烈だろ その日にレイプとかありえんわ…
というのは現代人の感覚なんだろうか おまいら、眞子様や佳子様、絢子様に真剣に
惚れ込んでるなら高師直ら先人を見習って
皇族の女性を略奪婚するんだ 後世に名を残せるぞ どえする!?K小室が法律学びにアメリカに行っちゃった!!
一人日本に残されたうら若き姫君、
婚約中の彼と遠距離…何も起きないはずがなく… 日本最初の女性の天皇は推古天皇であることは
誰でも知っているだろう。ところで彼女の名は
額田部皇女で、即位する前異母兄の敏達天皇の后であったこと、
敏達天皇の喪の最中に異母弟の穴穂部皇子に強姦されそうになった
話とかみんな知ってるかな?この時代の皇族は
障害児が生れてもおかしくないほど近親婚しまくりだ。
夫の敏達天皇の母は、父欽明天皇の兄宣化天皇の皇女石姫で、
推古天皇から見ると異母兄である夫は従姉の息子でもある。
敏達は推古より16歳年上だったことが通説になっているが
愚管抄では5歳年上とされている。
また、穴穂部皇子の母蘇我小姉君は推古の母蘇我堅塩媛の妹
なので、従弟から犯されそうになったということだ。
敏達が亡くなった後、推古の同母兄である用明天皇が
即位したが、用明天皇の后も小姉君の産んだ穴穂部間人
皇女で、従妹にも当たる腹違いの妹だ。穴穂部間人皇女
が産んだのがあの有名な厩戸皇子こと聖徳太子だ。
この穴穂部間人皇女は、古事記によると用明天皇が亡く
なった後、用明と先妻の蘇我石寸名(用明の叔母である)
との間に生れた田目皇子と再婚して佐富女王を産んだ。
義理の息子とはいえ10歳は年が離れていただろう。
天皇の后であった女性が義理の子と姦通して子どもを産む
とか現代では考えられない話だ。推古天皇は聖徳太子の
お母さんであるこの淫乱(?)な女性を嫌っていたという。 用明天皇や推古天皇を産んだ堅塩媛という女性は
その一生で七男六女も産んでいる。仮に17歳ぐらいから
一年おきに子どもを産んだとしても最後の子どもを産んだ
ときは40歳を超えていたはずだ
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である
古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ
欽明天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage629.htm
推古天皇はなぜ、自分の娘たちを同族の厩戸皇子よりも
継子にあたる押坂彦人大兄皇子に嫁がせていったのか
「推古天皇の継承問題」によると、穴穂部間人皇女や
厩戸皇子ら、小姉君系の一族を嫌っていたからだという。
厩戸皇子の実の父親が蘇我馬子ではないかという疑惑の真相は?
押坂彦人大兄皇子について
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage634.htm >>51の訂正
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である
古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ
↓
>>50の話がよく整理できないという人のために
敏達・用明・崇峻・推古の四人の天皇の父である欽明天皇
について、古代天皇の生没年を研究する個人サイトを載せるよ 欽明天皇の年齢より
>意味のない比較かもしれませんが、天武天皇は10人の后妃で17人の子供を
>なしました。豪族間との広い付き合いが垣間見える気がします。継体天皇も同様です。
>これに比較すると、欽明天皇は地味で真面目な性格のように見えます。
>狭い宮廷環境の中での生活が中心であったことがわかります。
江戸時代の後水尾天皇は19皇子17皇女を儲けているけど、36人もの子女を
産ませるのに何人の女性を必要としたかというと意外にもたったの7人で、
天皇が寵愛した女性たちが多産だったことが分かる。
天皇の女性関係や子どもの数を知ることで、天皇の性格も見えてくる
という視点はなかなか面白い。 >>50
>この穴穂部間人皇女は、古事記によると…
これも違う。古事記ではなく上宮聖徳法王帝説によるとだ。 女性が義理の息子と関係を持つのはけしからんというが、
神武天皇が亡くなった後、神武が故郷から連れて来た
長男のタギシミミは、神武が大和で娶り、
カムヤイミミと綏靖天皇を産ませたヒメタタライスズヒメ
と再婚している。神武天皇が76年も在位したというのは
日本書紀にありがちな大げさな誇張で実際には在位20年未満で、
彼が亡くなったとき、妻のヒメタタライスズヒメはまだ30代で
10代の子どもを持つ若い未亡人だったから再婚できたのだろう。
おそらくタギシミミはヒメタタライスズヒメとの間に子どもが
できることを期待してカムヤイミミとカムヌナカワミミ(綏靖
天皇)を殺そうして、逆に彼女の子どもたちに殺されたのではないか。
他には、ヒメタタライスズヒメと綏靖天皇の后のイスズヨリヒメの名前
が似ているから、綏靖天皇は神武天皇の身内かもしれないが、ヒメタ
タライスズヒメの子どもではなく、神武天皇の死後、タギシミミと綏靖
が彼女を巡って対立したのではないかと考える人もいる。
敏達天皇が亡くなったとき、皇后の額田部皇女は32歳。自分こそが
天皇になるのに相応しいと思っていた穴穂部皇子も額田部皇女を犯して
皇子を産ませようと考えていたのだろう。 他に第8代孝元天皇の妃のイカガシコメも天皇との間に彦太忍信命
(武内宿禰の祖父)を産んだ後、夫の死後継子の開化天皇と
結婚し崇神天皇を儲けている。ただし、最初の十数代の天皇は
順調に親子継承ができておらず、同世代の天皇が何人か重複している
という見解もあり、孝元と開化は親子ではなく兄弟ではないかとい
うこともありうるし、崇神は孝元の息子で、開化はその中継ぎだった
かもしれない。それ以外には、崇神天皇からが新しい王朝で、前王朝の
開化天皇と無理やり血筋で繋げるため、こんなありえない婚姻関係で
生れたことにされているんだという説もある。
箸墓古墳の埋葬者とも言われる第7代孝霊天皇の皇女
ヤマトトトビモモソヒメは第10代崇神天皇の時代に大物主神の妻
になったと伝えられるが、日本書紀の年数をそのまま受け入れ、
孝元57年、開化60年を跨ぐと、百数十歳の枯れ木のような
お婆さんになってしまい、いくら大物主神が物好きでも…という話になる。
彼女が崇神天皇の大叔母ということはあるまい。ありえても姉か妹では?
きっと遅くても30歳ぐらいの若い女性だったろうと思う。
それかこの物語は崇神天皇より前の出来事で、それが崇神天皇の時代の
記事に紛れ込んだか。陰部に箸(当時はなかったそうだが)を突き刺して死ぬ
という死に方はかなり奇怪に思える。 叔母さんとセックスした天皇てどうよ?
草壁皇子と元明天皇、後朱雀天皇と藤原嬉子みたいに
年齢が近いカップルはまあいいとして、
母親の11歳年下の妹で9歳も年上の藤原威子と皇女を二人儲けた
後一条天皇、母親の7歳年下の妹で11歳も年上の西園寺公子と皇女を
三人も儲けた後深草天皇はすっごい物好きとしか思えない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています