誰でも知っているだろう。ところで彼女の名は
額田部皇女で、即位する前異母兄の敏達天皇の后であったこと、
敏達天皇の喪の最中に異母弟の穴穂部皇子に強姦されそうになった
話とかみんな知ってるかな?この時代の皇族は
障害児が生れてもおかしくないほど近親婚しまくりだ。
夫の敏達天皇の母は、父欽明天皇の兄宣化天皇の皇女石姫で、
推古天皇から見ると異母兄である夫は従姉の息子でもある。
敏達は推古より16歳年上だったことが通説になっているが
愚管抄では5歳年上とされている。
また、穴穂部皇子の母蘇我小姉君は推古の母蘇我堅塩媛の妹
なので、従弟から犯されそうになったということだ。
敏達が亡くなった後、推古の同母兄である用明天皇が
即位したが、用明天皇の后も小姉君の産んだ穴穂部間人
皇女で、従妹にも当たる腹違いの妹だ。穴穂部間人皇女
が産んだのがあの有名な厩戸皇子こと聖徳太子だ。
この穴穂部間人皇女は、古事記によると用明天皇が亡く
なった後、用明と先妻の蘇我石寸名(用明の叔母である)
との間に生れた田目皇子と再婚して佐富女王を産んだ。
義理の息子とはいえ10歳は年が離れていただろう。
天皇の后であった女性が義理の子と姦通して子どもを産む
とか現代では考えられない話だ。推古天皇は聖徳太子の
お母さんであるこの淫乱(?)な女性を嫌っていたという。