その車には、紫色の太いラインが入っている。大きなバンタイプのそれは、緑のラインに、赤十字なら、献血
車だと誰もが思うような外見をしている。
 町の人々は、誰もその車を見ようとしない。口では差別をしないと言っていようとも、大衆が感染病の人間が
いる場所に近づこうとしないように、普通の人間は、その車を本音では、差別している。
 車には紫のラインと半分重なるようにして、特殊人権委員会という文字がペイントされている。市民は皆、そ
の委員会が日本でもっとも腐敗した行政組織であることを知っている。人権という大義を盾に、彼らが人権を犯
している、と皆思っている。だが、他に問題があるうちは、スラムが排除されることがないように、その委員会
は存在を認められていきつつある。
 特殊人権委員会は、人権というものを盲信的に主張するのではなく、新しい視点から、人権を見直すことを目
的として、設置された。しかし、その実態は数年の間明かされることは無く、しばらくの間、その名が印刷され
た、今までとなんら変わりの無いような人権を主張するポスターが各所に貼られる程度の活動しか、市民の目に
触れることは無かった。
 しかし、数年後とんでもない主張が、その委員会からなされた。人権を持つに値しない、人間が存在するので
はないか、というものだった。しかしその主張も、初めのうちは義理人情にあふれた小説に見られるような「下
衆に人権はねぇ!!!」と江戸弁で言っているかのような、ある種冗談にも思える、主張だった。だが、更にそ
の数年後、委員会は、ある主張を始めた。委員会は、その本性を現したのだった。
 被虐的な人間、サドマゾヒズムという精神疾患を有する人間のうち、特に被虐性欲を持っている人間には、人
権を与える必要性が、無い。言い換えるならば、人権を与える価値が無い。と委員会は主張を始めた。その理由
として、競争社会・資本主義世界におけるマゾヒストの異物性、悪影響を委員会は主張した。どれも論理的に受
け入れられるようなものではなく、しかし漫然と認めることは不可能ではないような、そんな主張だった。
 そしてその主張は気がついた時には、法令化されていた。誰もが目をそむけている間に、誰もが触れようとし
ない間に、ひっそりと、しっかりと社会の仕組みへと潜り込んでいた。