(それなりにマナーや礼儀作法は教え込まれてきたけれど、気品や上品さからは程遠い。どちらかといえば、幼い頃から自由気ままに振る舞うほうだった)
高梨、私、あちらの田中会長にご挨拶してこなきゃならないんだけど…先にちょっとお手洗いに行ってきてもいい?
もし帰られてしまいそうだったら引き留めて、お願い!
(私は普段はパーティーなどにはほとんど顔を出さない。それでも、多忙な姉に代わって、時折社交の場に参加することもある。今日も大企業のトップなどが集う、食事会に来ているところだ)
(私が今、無茶なお願いをした相手は高梨耕司といって、私専属の身の回りの世話をする執事であり、護衛も兼ねた付き人。そして…私の恋人。普段は人目があるので名字を呼び捨てにしているけれど、二人きりのときには名前で呼んでいる)
(トイレで身だしなみを整えてから大ホールに戻り周囲を見回していると会長を見つける前に大声で名前を呼ばれた。その嫌みなほどに陽気な声は、誰なのかすぐにわかる)
「亜弓さん!いらしてたんですね〜
今日はお姉さんが来られると聞いていたんですよ。亜弓さんが来ると知ってたらもっと髪型も服装も決めてきたのに
あ、シャンパン飲みます?僕、取ってきましょうか?」
(妙に親しげに話しかけてきたこの男は宮田という、父と懇意にしている企業の御曹司だ。父は最近宮田を私の結婚相手に、と仄めかしている。私はその度にまだ結婚するつもりはないと言っているが、母は父よりもしつこい)
(私としてはあからさまに媚びてくる宮田のことは苦手だったが、それを態度に出して父の立場に差し障りがあってはいけないので、会う度に無難な対応を取っていた)
こんばんは、宮田さん
いえ、私はもう帰るところなので…結構です
「あれ?でも、今奥のほうに行こうとしてたじゃないですか」
ええ、ちょっと…田中会長にご挨拶だけしてからと思いまして
「じゃあ僕も一緒に行きますよ、さあ」
(宮田の手が無遠慮に背中に触れて私を促す。エスコートされるのはこういった場面では珍しくもないが、私は彼以外の男性に触れられるなど耐えられない。相手が宮田だと、余計にゾッとする)