二十世紀初頭、爛熟と退廃の帝都ウィーンにあって、貧民宿泊施設や独身男子寮は、困
窮者の受け皿であると同時に同性愛者の溜まり場でもあった。ウィーンだけではなく他の
大都市でも、これは公然の秘密だった。
 当時としては比較的モダンで快適な宿泊所だったメルデマン街の独身男子寮は、入居者
の約七割が三十五歳以下の若年層で、男性が若い男を買いに行く場所として殊に有名だっ
た。
 男娼たちは日の暮れ時になると一階の広い談話室に集まって来て、それぞれ思い思いに
寛ぐふりをしながら、客を待っていた。客は談話室をそぞろ歩いては、好みの男の子を品
定めし、話しかけたり通り過ぎたりした。隣に座って商談成立となれば、二人寄り添って
入居者の各自に与えられた居室へと消えるのがここの暗黙の了解だった。
 「名前は?」
 ある裕福そうな身なりをした壮年の男が、談話室の隅に座ってスケッチブックに絵を描
いていた黒髪の青年に目を留めた。
 「アドルフ。アーディだのデュフィだの呼ばないでね」
 年の頃二十歳ほどの痩せた青年は、射抜くような碧い目を上げ、素気なく答えた。澄ま
し返り、気怠そうで、一人でも多くの客を取ろう、一クローネでも多く稼ごうという気な
ど更々ないように思える。そこが逆に遊び慣れた男の興味を惹いた。
 「アドルフ、目がいいな。気に入った、おまえにするよ」
 「こちらどうぞ。煙草はやめてね」
 青年はにこりともせず、スケッチブックを閉じ、立ってすたすたと廊下を歩き始めた。
客は首を傾げ、独りごちながらついて行った。
 「愛想のない奴だな。まあいいや」