0001風と木の名無しさん2005/08/29(月) 09:16:46ID:jfIAnBVD
アンパンマンで801
其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。
「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。
貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。
法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。
あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色の生活を、二人で楽むのね。
それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。
ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。
と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。
そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。
わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。
が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。
そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。
の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴がのぞいてゐる。
金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。
「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。
私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。
彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡を噛んでゐるわ。
今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」
そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。
それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。
それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。
云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。
わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。