ふいに誰かが伸ばした腕を掴んだ。水底から引き上げられる。
目をあけると優しい兄の姿。肩越しに見えるのは月ではなく見慣れた天井。
「ここ、は?まだ水の中?苦しくて息が出来ない……?」
「おまえの部屋だよ」
兄が酷く心配そうにラウルを覗きこみ、哀れみを込めた調子で続ける。
「ラウル、頼むから目を覚ましてくれ。医者を呼ぼうか?」
兄はかねてから弟がおかしくなってしまったのではないかと思っていた。
もしそうだとしたら、何をしてでもそこから救ってやらなくてはとも。
「じゃ、あれは夢?」
「そうだよ。帰ってきてすぐにベッドに倒れ込んで、どうしたものかと思っていたら
今度はうなされて大声で呻きだして……はやく目を覚ましてくれ」
もう見ていられないというように兄は目を伏せる。

よかった、あれは夢なんだ。でも夢だとわかっても震えが止まらなかった。
ラウルは起き上がり、震える肩を抱いて、兄の胸に体を預けた。
兄は何も訊かずに抱きしめてくれる。まるでそうしないと壊れてしまうというように力強く。
触れ合った箇所から体温が戻っていく。伝わるぬくもりに涙が溢れそうになる。
もしも周りの人間がみんないなくなっても、兄だけは一緒にいてくれるとそう思えた。
「昔と何も変わらないな。幼い頃のおまえは悪い夢にうなされるといつも私のところに来て、
わんわん泣いて、疲れたらしがみついて眠りこけて。私は一晩中動けなかった」
恥ずかしさもあって何も言えなかった。
僅かに上気した体温に気づいたのか、兄はおかしそうに笑う。
「悪い夢だけでなく夜が怖い、闇が怖いと泣いて私や皆を困らせた。終いには月まで怖がるから、
私達は夜が来たら全ての窓を覆って、部屋中に明かりを灯さなければならなくなった」
部屋が昼間のように煌々と明るいことに気づき、ラウルは少しばつが悪くなった。

「今も夜の闇は怖いか?」
「まだ少し苦手だけど」
夜は冷たく月は無慈悲だと思っていたけど本当はそうじゃなかった。
「でも昼の青空に太陽が力強く輝くように、夜の暗闇は月が優しく照らしだす。
昼の世界に音楽があるように、夜の世界にも音楽がある。
光は全てを平等に照らし、闇は全てを平等に隠す。
光があるから闇があって、闇があるから光がある。
そう教えてくれた人がいるから、もう怖くない」
目を閉じて波のように絶え間なく続く鼓動に身をゆだねる。
ラウルはそっと意識を手放した。