兄のフィリップと共にオペラ座にやってきたラウルは、ロビーで身なりのいい紳士に呼び止められた。
「お久しぶりです、シャニー伯爵。最近お見かけしないから心配していました」
「色々ありましてね」
「お察しします」
紳士がしきりにこちらを見てくる。
不躾な好奇に満ちた視線であったが、ラウルは気にも留めなかった。にこりと微笑で応じる。
そういうのは慣れっこだったし、どうでもいい人からどう思われていようと関係ない。
みんな右から左へすり抜けていく。上辺だけを滑っていくから、心には残らない。

何よりラウルが思いを馳せていたのは昨夜の夢のこと……ではなく、今し方の出来事であった。
兄に叩き起こされ、窓を見ると綺麗な朝焼けで何だってこんな時間にと文句を言ったら、
朝焼けで無く夕焼けなのだと説明された。昨夜の一件もあってだいぶ寝過してしまったらしい。
それはともかく兄には傍若無人な点が多々あった。
彼はラウルに対して「馬車を用意してくるから二分で身支度を整えろ」と無茶ぶりをしたのだ。
「ちょwムリwww」と言い終わる頃にはラウルは寝巻のまま首根っこを掴まれ馬車に放り込まれていた。
幸い馬車の中は広く、着替えるのには困らなかった。それでもあんなところで着替えたくなかったけど。
ラウルは顎を撫でる。髭は伸びていない……と思う。
馬車には何故か剃刀などの生活用品も備え付けられており、何不自由なく身支度を整えることが出来た。
さすが兄さん、朝帰りする男は違う。とか尊敬の念を覚えたのはまた別の話。

「今度絵画を集めてオークションでもと思うのですが、伯爵もいかがですか」
「それは素晴らしい。書斎の壁が寂しいと思っていたところです」
例の紳士はどうやら兄の知り合いで文部省のお偉いさんらしい。
ラウルは二人のやり取りに口を挟むわけでもなくぼんやりと眺めていた。
兄は話に横槍を入れられるのを大変嫌っていたし、ラウルはそれほど芸術や文化に明るくなかった。
「失礼。弟さんはこのようなお話はお好きでないようですね」
「弟は難しい話は苦手なんですよ。ラウル、向こうに行ってなさい」
「はい。では失礼します」
随分な言われようだったが、ラウルは気にしなかった。
それどころか解放されたと内心ほっとしたくらいだ。