のんびりとロビーを歩いていると激しく背中を叩かれた。
「痛っ」
「こんばんは、シャニー子爵」
振り返るとそこには〈ペルシャ人〉がいた。彼が叩いたらしい。「こんばんは」と軽く会釈する。
「今宵はチケットをありがとうございます。先ほど席を拝見させてもらったのですが、
とてもいい席ですね。今晩は楽しめそうだ」
「僕は支払いをしただけです」
「相変わらず都合のいい財布か。この分だと知らないうちにだいぶ払わされてるんだろうな」
「えっ」
ぼそりと呟いた〈ペルシャ人〉の言葉をうまく聞き取れず、ラウルは聞き返した。
しかし〈ペルシャ人〉はその問いに答えず曖昧に微笑む。
「とにかくチケットありがとうございました」
「いいえお礼なら彼に言ってください」
「では私はこれで。そうだ、背中に気をつけてください」
「?」
〈ペルシャ人〉は謎の言葉を残してどこかに行ってしまった。
背中って何のことだろうか。考えても答えが見えないので、ラウルは忘れることにした。

幸いすぐに忘れるような出来事が起こり始めた。
すれ違う人々がしきりにこちらを振り返り、笑っている。
少し気味が悪かったけど、僕は(色々な意味で)有名人だからと都合よく解釈した。
階段の踊り場で階下を見下ろしていると兄に名前を呼ばれ、凄まじい勢いで背中を叩いた。
つんのめって転げ落ちそうになる寸のところで襟首を掴まれる。
〈ペルシャ人〉の言っていた「背中に注意」とはこういうことなのだろうか。
「ラウル、何をやっている!」
ラウルはどうして怒鳴られているのかわからず首を捻った。
兄に怒られるようなことは「今日は」していないはずである。
けれどもラウルはわかっていなかった。
しっかり者の兄にとって、のんびりしている弟はそれだけで苛立ちの対象になるということを。
といっても兄は弟のそういうところも長所だと認識していたので、その件で怒ることはあまり無かった。
「何ってナニがですか?」
とんちんかんな答えを返すと兄が額を押さえる。
「何故笑われているのかわからないのか?」
「僕が有名人だから?」
「こんなものを背中に貼り付けて歩いているからだ!」
兄はまた背中を叩いた。今度はベリッと何かが剥がれる音がして目の前に翳される。
ラウルはそれを受け取ると表と裏を丁寧に観察した。
「手紙?」
宛名も差出人の名前も書いていないが、背中に貼られていたのだからラウル宛には間違いないだろう。