綾音は、自分だけがこんな扱いなのは、入院するから念入りに検査をするのだと思っている。
 それはまったくの間違いというわけではなかったが、正確な話でもなかった。
 綾音にわからないのも当然だ。学用患者になるということを、母親はろくに説明していないのだ。
 まさか入院費と待遇が引き換えになっているとは、綾音は思いもしなかった。

 綾音が嫌々ながらもいうとおりにしているのは、母と同じく、病院とはこういうものという先入観があるからだ。
このころは、病院側もそうした状況にあぐらをかき、漫然と旧来のあり方を続け、患者への気配りがなかった。
 ただ、それにしても綾音の待遇は少々行き過ぎている。
 無論、これは綾音が学用患者であるからであり、そして、この病院に学用患者を扱うにあたって、
独特の慣例があるからであった。

 学用として各種費用を免除された以上、人前でハダカになるくらいは我慢してもらわなければならない。
子供ならなおさら。
 それが病院の理屈だ。
 もっとも患者当人がこのことを納得しているとは限らない。綾音もそうであるように、小児科では、
子供本人はよくわからないまま、親が学用として承諾していることがある。わけもわからないうちにツケが
回ってくる子供が嫌がるのも当たり前だ。

 もちろん、病院からすれば、そういうことは家庭の事情であるから、学用患児の内心などは、
いちいち気にすることではない。
 学用となったのだから、役目は役目だ。
 衆人環視の中、カーテンも衝立もないところで、全裸の検査が始められる。
 学用患児のに対しては、他の患者、どんな年少の幼児にもある最低限の配慮さえ、まったくされない。
 これが学用患児の洗礼だ。

 服を全部脱がせてしまうのは、検査や処置が容易になるし、着替えの手間が省けて時間の節約になるからだ。
 結局脱がせることになるのだから、最初に脱がせて、慣れさせる意味もある。
 だが、それだけではない。
 学用患児は教材になるのだから、どんな指示にも従うようにしなければいけない。
 患児を従順にするには、裸にひん剥いてしまうのが手っ取り早い。大勢の中で一人だけ裸にされた患児は、
まず萎縮して、おとなしくなる。

 こういった理由で、学用患児はことあるごとに裸にされる。脱衣が必要な検査はもちろん、そうでない検査でも、
必ず丸裸にされてしまうのだ。
 さらにその上、当たり前のように公衆の面前に――病院関係者のみならず、他患児や見舞客、ときには出入りの
業者の前でも――晒されるのである。

 裸にされるのは検査の場だけではないということだ。
 ときには処置室。ときには病室。検査の前の待合室。廊下。屋上。中庭。移動中も。ストレッチャーや
車椅子で運ばれることもあれば、歩かされることもある。
 多くの人々が出入りするこうした場所を、学用患児は裸で過ごすことになる。

 病院とはいえ、人前で正真正銘のスッポンポンにされるのだから、子供でも恥ずかしく嫌なものである。
 特に年長の患児などはかなり辛いだろうが、だからこそ効果的だ。小学校の高学年ともなれば、羞恥心が
強くなっていくものだ。それなのに、検査として、大勢の前で服を脱がなくてはいけない。どんなに嫌がって
抵抗しても許してもらえず、最後には必ず素っ裸にされる。
 衣服の差は立場の差だ。患児は己の立場を否応にも実感し、体で覚える。学用患児こうやって裸に慣らされ、
従順にされる。
 こうした扱いが当然になった学用患児は、どんな検査や処置でも受け入れるようになるのである。


 綾音の場合、さらに悲惨だ。夜尿症という症状が症状である。検査も治療も下半身に関わるものばかりなのだ。
 通常の患者でも複数の医者が立ち会うことはある。学用検査を認めていなくても、綾音は辛い入院生活は
免れなかっただろう。
 綾音はどうあがいても悲惨な境遇となると決まっているようなものだった。

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