「――そりゃあ毎朝、顔を見るだけだからねぇ。今朝も……じゃなかった、昨日か。昨日の朝もカノさん見たよ。自転車乗ってると、大体歩いてるの見るかなぁ」
「なんだよ……初対面じゃないって、ホントに顔を知ってただけ、だったのかよ……」

 心地よい弾力のベッドの上。
 二人は並んで手を繋ぎ、天井を仰いでいた。
 閉め切ったカーテンの隙間から、光があふれている。
 元気な鳥の鳴声も聞こえてくる。
 その世の中に背を向けて、これから二人は眠りの世界に旅立とうとしていた。

「……でもね、この何年かで、色々見たことあるんだよ。カノさん、困ってる人助けてあげたりとか、してたでしょ」
「え? ……ああ。時々あったな、そんなこと」
「年寄りの人とか、迷子っぽい子どもとか。通りで車の事故あった時もさ、救急車来るまでケガした人と一緒に居たり。だから、名前も何も知らないけど、良い人なんだなってのは、知ってた。だからさ、死んで欲しくなかったのさ」
「いいひと、ねぇ……違うんじゃないかな……。それにあんまり俺、そう言われるの好きじゃない」

 それは単なる自分の性分で、それで何か褒められることではない。
 「いいひと」それは、鹿屋には呪いのような言葉でもあった。

「カノさん、そうは言うけど、絶対良い人だよね。だからきっと、仕事…会社とかでは損をしてたと思う。優しい人は、それだけで不利になる。嫌な世の中だよ。自分の仕事でも、そういう人は何人も見てきた」
「損、そうか……そうだな、確かにそんなだった」
「だから私、仕事では感情を殺してきた。でもここんとこ、嫌なこと続きでね……。仕事だけじゃないな。このオナカにも苦しめられるし。友達関係もギスギスし始めたり。そんで挙句に今日は超残業のあと、自転車盗まれた。歩くしかなくなってね……」
「ああ、だからあの場所に歩いてきたのか。そりゃ災難だったな……」
「そうそう。で、あんまりムカついて、コンビニでビール買って、飲みながら帰ったの。そしたらカノさんが、橋から飛び降りようとしてた」
「で、助けてくれたのか……」
「まぁね。しかも、あんな恥ずかしいこと絶叫してるじゃない? これはね、運命だと思ったね。本当ならあの世に逃がしちゃならん、捕まえて自分のものにしないとって」
「つ…捕まえて……? 助けなきゃ、ではなく……」
「あはは、まぁまぁ…気にしない!」

 添い寝をする形になり、ぎゅっと両手で、富士谷は鹿屋の右腕を掴む。
 彼女もまた、よほど人の温かさに飢えていたのだろうか。
 さっきの汚れを洗っていたときのように。
 小さな女の子に戻ったかのように、鹿屋の肌にすがりつく。